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聖なる静けさは涙と共に訪れる。

ぼくの整体指導室に整体指導を受けに来られる方々は

まさか自分が号泣することになろうとは夢にも思っていない。

ところが愉気を介してふれていると時々涙を流される方がいる。


とくに初めての来室時に号泣したりすると皆さん一様に驚かれる。

自分の中に凝固してしまった感情を抱えていると

整体指導を受けていて突如として涙が溢れてくることがある。


初対面でまだそんなに言葉も交わしていないぼくの前で

自分が号泣しだしたことには驚くけれど

ほとんどの方は号泣の理由にはすぐに思い当たって驚かれない。

長いあいだ

我慢していた感情

抑えていた気持ち

見ないようにしていた感情たち


そういった凝固させてしまっていたエネルギーの解放は

心身に緩みをもたらしてくれる。


だから嗚咽を漏らして涙を流されているときは

エネルギーの解放を邪魔しないよう、促すように

出来る限りシンプルに愉気だけに留める。


凝固したエネルギーが涙として解放されるのは

やっぱり愉気を介して触れているからだと思う。

気の感応が生じる相手にふれられて

気の感応による温かさをカラダで感じたときに

ふっと安心して

突如として涙があふれだす。


涙を流されている人に

そっとふれて愉気をしているとき

ぼく自身は静けさに包まれている。

インタビューしたことはないけれど

涙を流されている方も同様に静けさに包まれているような気がしている。


涙を流されている方が年上だろうと、年下だろうと

年齢に関係なく

まるで幼子にふれている感覚になる。


愉気をおこなっている手のひらからは

泣いているカラダや呼吸の震えが伝わってくる。

安心して泣き続けられるように

ただただ愉気をしていく。

とっても静かな時間。


かつてぼく自身も愉気を受けていて

涙があふれてきたことが2回だけある。

それは大好きなおばあちゃんが亡くなった後

そして敬愛する師匠の田総先生が亡くなった後のことだった。


気の感応によって涙があふれてくると

愉気を受けている側も

愉気を行っている側も

脳内の思考は静まって

室内には泣き声と震えている呼吸音だけが響き渡る。

それなのに室内は不思議と静けさが深まっていく。

ぼくはそれを聖なる静けさと呼んで愛している。



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