子育て世帯の時間的貧困と精神的貧困

冷蔵庫の横にインターネット接続機器を配置する。テレビのないわが家。あまりにメディアから遮断された生活も子どもたちにはよくないだろうと、ようやく固定インターネット回線を契約した。ネットにアクセスできるようになったことを確認して、横にある冷蔵庫に目をやる。中はいつもスカスカ。毎日最小限の食料を調達している。和室で子どもたちが着替えを用意している。タンスの中も最小限の衣類しか入っていない。そして買い物をするのは徒歩移動。車は持っていない。外食にもほとんど行かないし、行ってもサイゼリヤ。贅沢するならスシロー。

4人家族の生活費の平均額を知って驚いたことがある。全国平均なので、九州だともっと低くなるのかもしれない。それでもわが家の生活費は少ないほうだと思う。会社を設立して役員報酬を決めるときにもまずは低めの金額を設定しておいた。低収入低支出の低空飛行な生活。といっても何かを我慢しているわけではなくて、自分たちの基準でふつうに生活していたらそれほどお金がかからないというだけだ。でも最近は子どもたちにもっといろいろなことを体験させることにお金をかけなければと思っているのだけど。

最近、テレビやネットで「子どもの貧困」に関する話題が増えている。子どもの6人に1人が貧困であるという。これがひとり親家庭の子どもになると50%以上が貧困なのだそうだ。現在の日本は格差社会というよりも階層社会だという意見もある。自分が属する階層と違う階層については知る機会がない。僕も意識的に子どもやひとり親家庭の貧困について調べ始めた当初は、日本にこのような状況が存在するなんてと衝撃を受けたものだ。

貧困について語られるときには、金銭的な貧困についてがほとんどだ。一方で子育て世帯については金銭的貧困以外にも問題があるのではないかと考えている。それは時間的貧困と精神的貧困のふたつだ。たとえ収入があったとしても陥る可能性のあるふたつの貧困とはどのようなものだろうか。

ひとり親になって転職を余儀なくされるという話はよく聞く。僕の場合はさいわいにも転職せずにフルタイムで仕事を続けることができた。保育園のお迎えがあるので定時前にオフィスを出て、仕事の続きは夜子どもたちが寝てからという生活に変わった。朝はお弁当を作り三女を保育園に送ってから出社する。夕方は保育園のお迎えの帰りに買い物をして夕飯を作る。その間に子どもたちを風呂に入れて、洗濯機をまわす。部屋を片付けて食器を洗っていると洗濯が終わるので、洗濯物を干す。学校や保育園から配られる大量のプリントに目を通す。そうして仕事にとりかかる。子どもたちと接する時間は夕飯を食べている15分間だ。

これはフルタイムで働くシングルファーザーの特殊な例であるように思えるけれど、実際には家事育児をしながら働くワーキングマザーも同じような生活なのではないだろうか。いや、仕事をしていないママもそうだ。核家族化が進んで以前よりも母親が子どもの世話をする時間が増えているという。とにかく時間が足りない。これが時間的貧困だ。

この時間的貧困は金銭的貧困と違って誰にでも陥る可能性がある。収入を得るために働きに出ることが、時間的貧困を引き起こす。ネット上ににはそういったケースもよく報告されている。それで収入が大幅に増えれば救いはあるのだけど、子どもがいて好条件で働くことができる人は少ない。保育園の費用を考えると仕事をしているのに収支がとんとんということもある。これがひとり親となると共働きができない。半数以上が経済的貧困にあるというのも当然だろう。

最近は「貧困の連鎖」という言葉もよく聞くようになった。貧困の家庭で育った子どもは十分な教育を受けられずに、子どもも将来貧困になる可能性が高い。これは金銭的貧困の話なのだけど、時間的貧困に関しても連鎖は起こりうると考える。現在の教育システムでは、子どもの学力は親が子どものケアをする時間をとれるかどうかに依存している。時間に制約のある家庭では子どもに十分な時間をとることができない。学力だけに限らない。子どもの状況を親が把握できない。親が気がつかないところで子どもが犯罪に巻き込まれる悲しい事件も報道されている。

次に精神的貧困についてなのだけど、名前をつけてみたものの的確に実態を表してはいない気がする。要は精神的に余裕がない状態を表している。余裕がない。時間がなくて余裕がないのとも少し違って、精神力がすり減っている状態と言えばいいのだろうか。オフィスでの仕事を終えて、そこから怒涛の家事育児タイムに突入する。子どもたちが寝静まりもろもろの雑用も終わって、椅子に座り込む。もしくは床に転がり込む。エネルギー残量がゼロの状態。そこからさらに仕事や勉学に取り掛かるにはそれなりの精神力が必要だ。しかし、そんなものは残っていない。それが毎日続く。このように精神力が慢性的に枯渇している状態をここでは精神的貧困と呼んでいる。

精神的貧困に陥ると、できると思っていることができなかったりする。そうして何もできない自分を責める。自分を責めればさらに精神がすり減っていく。負のスパイラルに陥っていく。強者の理論でいけば時間は捻出できる。確かにふとした拍子に隙間時間は発生する。けれどもその時間に何か有意義なことをやる余裕などは残っていない。とにかく体力と精神力の回復に当てるしかない。すべてが自分ひとりにのしかかってくるひとり親はもちろん、理不尽な役割分担に疲弊しているワーキングマザーにしても身近に味方がいないことが多いだろう。自力で負のスパイラルから抜け出すのは難しいように思う。

金銭的な支援ということであれば、行政から多少の支援は受けられる。多子世帯だと3人目以降の保育料が無料になる自治体がある。ひとり親世帯には児童扶養手当が支給される。とは言っても児童扶養手当は第2子以降については先日やっと増額されて第2子で1万円、第3子で5千円とけっして手厚くはない。その上所得に応じて減額され、所得が一定以上になると受給することができない。児童扶養手当を受給していると医療費の補助も受けられるのだけど、受給停止の場合はこの補助もなくなる。一定以上の収入があれば助けはいらないという理屈はある意味では理解できる。

金銭的貧困についてはこれでいい。けれども時間的貧困と精神的貧困を考慮すると、所得で制限してしまうのは問題があるように思う。つまり、お金で買える時間もあれば、お金があることで生まれる精神的な余裕というのもあるはずだ。保育園の延長保育、自宅でのシッターや家事代行。金銭的に余裕があれば自分のための時間を作ることができる。また家事育児から一時的に解放されてすり減った精神を回復させる時間をとることができる。子育てをしていると常に子どもの将来の教育費について考えておく必要がある。その中での生活費のやり繰りなので、現在の生活費がとりあえずギリギリ足りている状態でも、将来のことを考えると時間や余裕を買うためにお金を使うことは難しい。手当や補助金は金銭的貧困のためだけに使われるべきではない。そう考えると、所得によって制限してしまうことで時間的貧困や精神的貧困の家庭を切り捨てることになるだろう。

手当や補助金以外では、保育園や学童保育の待機児童の解消が求められる。九州にいると保育園の待機児童というのは聞かないのだけど、学童保育は長女が待機児童となってしまったため自ら体験することになった。当然、多くの企業では普通に働くことはできなくなるだろう。問題はそれだけではない。当時4年生までだった学童保育の対象を6年生まで広げましたと自治体が大々的にアピールしたのだ。すでに待機児童が発生しているにもかかわらず、それを解消することなく対象を広げたところで待機児童が増えるだけだ。ひとり親になってからの行政不信は深まるばかりだ。「専門家が応じますので相談してください」という自治体の窓口に行くと、専門家など存在せず複数の部署をたらい回しにされる。表面的なアピールばかりを繰り返し、実態がともなっていない。そこで自分の力だけでなんとかするしかないと会社を辞めた話はまた別の機会にしたいと思う。

行政ばかりの問題かというと、もっと根の深い問題もある。例えばまだ小さな子どもを保育園にあずけると、それを非難する人がいる。子どもは母親が四六時中面倒を見るべきという古い価値観がいまだに幅を利かせている。それと戦いながらバランスを取ろうともがいているワーキングマザーの負担はかなりのものだと思う。そもそもワーキングマザーと書いているのだけど、女性が家事育児の主でなければならないというのもいまだ根強い古い価値観だ。男性が企業での長時間労働によって家庭に関与する余裕がないというのも問題だ。高度経済成長期に発達したサラリーマンとハイスペック専業主婦のモデルを破壊しなければならない時期はとうにやってきている。そのためには企業がそのあり方を変えるべきであるし、僕らひとりひとりも常識をアップデートしていくべきだと思う。そうすれば時間的貧困と精神的貧困は、ほんの少しではあるけれど、ほんの少しだけ軽減されることもあるのだろう。

子どもたちのために何もしてやれていない。そんな思いが常に頭の片隅にあり、ときおり膨らんだその思いに押しつぶされそうになる。小学校の長期休みになれば、子どもたちを実家にあずけて遅れた仕事を取り返す。世の中の子どもたちは海やキャンプに連れて行ってもらっているというのに。そんな時、長女の担任の先生の言葉を思い出す。海に行くよりも、キャンプに行くよりも、子どもたちはお父さんやお母さんが幸せそうにしているのが一番幸せなんです。この言葉にどれだけ救われただろうか。僕は子どもたちの前で幸せそうにしているだろうか。少なくとも、つらい表情だけは見せていないはずだ。何もしてやれていない。そんな思いと戦いながら、子どもたちの笑顔を見つめてはまだ大丈夫だと自分に言い聞かせて過ごす日々が続いている。

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