自殺をした太宰治という作家について少し

 アニメや漫画を鑑賞していて、思わず登場人物に共感してしまうことはよくあることだと思う。一方、小説を読んでいると、登場人物というより、作者本人に強く共感してしまうことがある。小説は漫画等とは異なり、文章でストーリーを語るという特性上、客観的に情景を描写することは原理的に不可能であり、語りに作者本人の主観が必ず表れてくる。おそらくはこれが作者への共感という現象の原因であり、この現象を通して作者本人の苦悩や心理状態が感じられ、どうしても作者が他人という気がしなくなってくるのである。

 これまでに僕が読んできた中で、このような作者への「親しみ」を特に強く感じた作家が3人いる――カフカ、サリンジャー、そして太宰である。
 この3人の作家の作品には、共通して作者本人の孤独が表れている。
 カフカの『城』には、職業のみが人間のアイデンティティとなった現代人の孤独が描かれているし、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』や『フラニーとズーイ』には欺瞞に満ちた世間と迎合できない若者の孤独と葛藤が描かれている。
 太宰も同様である。『斜陽』で直治の遺書に表れているのは、太宰自身の孤独と苦悩である。庶民とは言い難い良家の息子として生まれたが、マルキシズムが太宰に貴族的な生き方を拒否させた。自らの生活が他人からの搾取の上に成り立っていることを知り、独り思い悩んだのである。
『斜陽』ほど直接的に太宰の孤独が表れている作品は多くない。しかし孤独だけでなく、自嘲、皮肉、ニヒルが彼の作品の多くに共通しており、こうしたものはやはり孤独から生まれるのである。『道化の華』や『HUMAN LOST』といった名作が、人付き合いの多く快活な好青年から生まれるとは思えない。太宰の文学の根底にあるのはやはり孤独なのである。
 孤独が数々の名作を生み、『斜陽』という最高傑作を生み、そして『人間失格』という駄作を生み出したのである。

『人間失格』には次のような1文がある。

自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思いきれなかったらしいのです。

 孤独を憂う太宰の魂からの声である。しかし太宰曰く「芸術の美は市民への奉仕の美」なのであり、前述したように孤独が彼の作品の必須の条件となっているのだから、孤独は憂いても、市民、すなわち読者のためを思うなら、憂いにも関わらず是認すべきものだったのである。
 しかし太宰は孤独に耐えかねた。人に理解され、世間と迎合しようとした。『人間失格』では、複数回の自殺未遂や女を死なせたことの弁明、遊びまわってはいたが、全然楽しくはなかった、むしろ地獄の思いで遊んでいたというようなことが描かれており、まるで「恥の多い生涯」を送った太宰が正常で、普通に生きられることが異常なのだと錯覚するほど巧みに自己弁明が為されている。『人間失格』は自己弁明と愚痴で構成されている。
『斜陽』や『葉』に表れている、「ひしがれたくらし」の中に希望を探求するロマン主義や、『新郎』や『パンドラの匣』などで書かれた、人を励まそうとする優しさ、こうした「市民への奉仕の美」を書き続けた小説家、太宰治の姿を『人間失格』に見出すことは、何度読み返しても僕にはできなかった。
 しかも、太宰はそんな自己弁解を遺して死んでしまった。自殺は見せかけで、しばらく身を隠し、実は生きていた、というようなオチがあったなら、『人間失格』もなかなか気の利いた洒落になったのだろうが、実際にはそうはならなかった。

 太宰、芥川、川端など、いわゆる「文豪」には自殺した者が多い。そして彼らのいわゆる「ファン」は、その自殺を彼らの天才性が引き起こした悲劇のように解釈し、自殺に何か神聖なものや、しばしば憧れさえ見出すこともある。
 しかし少なくとも太宰に関しては、自殺を引き起こしたのは天才性などではなく、孤独に耐えかねた彼の弱さである。世間など突っぱねて、孤独を是認したならば、太宰は『人間失格』などよりも優れた作品をきっと書いたと思う。
 現に、永遠に未完の作品となった『グッド・バイ』がそうではないか。あの作品には、人生に虚無を見出した人間の、虚無故の軽やかなニヒルがある。底なしの絶望を経験した人間が到達した境地が、軽やかさだったのである。新たな太宰文学の可能性は既に花開きかけていたのであり、それ故に孤独に敗北し、蕾のままに終わったことが、僕は残念でならない。

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