交換日記喫茶店#1いい高タンパクを
いつまで思い出すのだろう。彼の匂いや声、瞳。1日の中で彼を思い出さなかった日がない。もう別れてから10ヶ月も経つのに。
別れはいつも突然だ。振られた理由は「他に好きな人ができた」だった。私はショックで2日間寝込んで仕事を適当な理由をつけて休んだ。そんな素振りはこの2年間1度も見せなかったのに。私の何がいけなかったのだろう。考えれば考えるほど体調が悪くなった。
「由里子、明日お休みでしょ?ちょっと貴彦にこれ渡してきてくれない?」
休みなのに面倒な頼み事をしてくる母親。ああ私はいつまで支配されるのだろう。貴彦さんはお母さんの弟だ。
「分かった。いいよ。渡すだけね。私、貴彦叔父さん苦手だから。」
叔父さんの家は電車に10分乗った後にバスに20分乗りその後徒歩で10分のところにある。非常にアクセスが悪い。私はこの辺の土地をあまり知らなかった。そういえば中学生以来、叔父さんの家に行ったことはなかった。
道中、妙に植物に囲まれた建物を見つけた。たくさんの種類の花が咲いている。近づくと『喫茶ダイアリー』とドアに書いてある。私は誘われるように扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
カランコロンとベルが鳴り、声がする方向を見る前に足元には1匹の猫がいた。茶色の毛並の猫は私の顔だけ見るとすぐにどこかへ行ってしまった。
店主はとても若かった。20代後半くらいだろうか、素敵なジーンズ素材のエプロンがよく似合う長身のスラっとした男性だ。
店内にはカウンター席とテーブル席がひとつだけあり、沢山の本棚に本が並んでる。他にお客さんは誰もいなかった。
「今日は何かお悩みですか?」
へ?ここは喫茶店では?悩み?大きな悩みならある、元彼が忘れられない。
「悩みってここ喫茶店ですよね」
「ええ喫茶店です。もしお悩みがございましたら、是非こちらのテーブル席へ」
青年マスターの指すテーブル席に座る。メニューの他にとても年期の入った書物がある。
「これは?」
「交換日記です。こちらに悩み事を書いて下されば、きっと次にこちらの席に座る誰かが悩み事を解決してくれるでしょう」
日記を開くと悩み事がたくさん書かれ、それに対して誰かが回答している。
私の前に座ってた人はどんなことを悩んでいるのだろう。
『彼氏がいるのですが他に好きな人ができました。正直に伝えるべきでしょうか?』
私はその悩みを見た時に、心がキリキリと痛かった。私が振られた理由だったから。拓也は私を振るときに悩んでいたのだろうか。人を好きになるという現象には抗えないのだろう。拓也は私に正直に伝えてきたけれど、他に正解があったのだろうか、それとも嘘をついて他のことを理由にすべきだったのだろうか。
私は正直に言ってくれてよかったと思う。だって出来るだけその謎を解明したくないのだから。別れた理由を解明するのはエネルギーがいる。もう二度と戻れないなら、全てを正直に言って欲しかった。
きっと拓也なりの誠意を最後に尽くしたのだろう。そう思うしかなかった。
私は正直に伝えるべきと回答して、この子の彼氏の今後を心配した。ああ私と同じになるなよ。
私の悩み。拓也を忘れられない。私はシンプルに「忘れられない人がいる」と書いた。
ホットコーヒーをひとつ頼み、ひと息つく。青年マスターの淹れたコーヒーは美味しかった。
「悩み事の答えを聞きにまたいらして下さい」
そう、悩み事の答えを聞くにはまたここへ来なくてはいけない。叔父さんの家に来る用事などつくりたくないのに。そうやってリピーターを増やすのか。上手い商売だな。ジーンズ若マスターめ。
私はありきたりな恋の悩みの回答に期待することなく、貴彦さんの家に立ち寄り、母に頼まれた用事を済ました。
「叔父さん、近いうちにまた私、叔父さんの家に来るかも」
「何しに来るんだ?本当は来たくなかったんだろ?」
やっぱり叔父さんが嫌いだ。
週末、私は再び、あの喫茶店に向かった。あの悩みの解決策を聞きに。
お店に入るとまたあの猫がいた。今日は優しい顔をしている。ゆっくりと私をあのテーブルまで案内してくれた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。どうぞ」
私はすぐにあのテーブル席に座り、日記を開いた。
『体づくりで大事なのは筋トレとタンパク質摂取。いい高タンパクを』
達筆な字でそう書いてある。くそ!私の悩みを馬鹿にして!この筋肉馬鹿め!許せん!
私はその見当違いの答えに憤りを隠せずに店を出た。他の人の悩みの回答を書く余裕などなかった。
貴彦叔父さんの家に寄ると叔父さんはスクワットをしていた。叔父さんは筋トレが趣味なのだ。くそ。ここにもいた、筋肉馬鹿め。喫茶店のことを思い出してイライラした。
「体づくりはよー。食事も大事なんだぜー。特にタンパク質。高タンパクの物を食わねえとなー。」
叔父さんはそう言ってゆで卵を頬張った。
どこかで聞いたことある言葉、そうさっき聞いた言葉。高タンパク。
「ねえ叔父さん、叔父さんは失恋したことある?」
「あたりめえだろ。なんだ由里子失恋したのか」
叔父さんの口調は相変わらず嫌いだ。聞く人を間違えた気がした。
「忘れられない人がいるの。どうやったら忘れられると思う?」
「由里子、俺はなあ、全員覚えてるぞ。どの恋もぜーんぶ。別れは不本意だったかもしれないけどな。全部素晴らしい恋で、その経験で今の俺ができてんのよ。いい恋だったって胸を張って言えるのならな、それは今の素晴らしいお前をつくってる大事なものなわけよ。
だからよ、大好きで忘れられないっていう恋愛は全部、いい恋愛だったんだと思うよ。逆にすぐ忘れられる恋愛なんて今のお前をつくるのに大した働きなんてしてないな」
叔父さんはスクワットしながら息を荒して答えた。たしかに叔父さんは口調は悪いけど、叔母さんが病気で入院してた頃も、休みの日は必ずお見舞いに行き、叔母さんが必要なものや、欲しいものを買っては届けていた。叔母さんが好きそうな本を見つけると「この本あいつ好きそうだな」と買っていた。そういえば叔父さんは叔母さんに出会うずっと前に大きな病気を患ったことがあると言っていた。きっとそのときの恋人が叔父さんにやってくれたことを今度は叔父さんが叔母さんにしてあげたのだろう。タンパク質。いい体をつくるのには高タンパク。急に喫茶店の日記を思い出す。
そうだ、拓也との出会いが無ければ今の私だってできていない。拓也との時間はとても大切だった。拓也の優しさや、誠実さはどれも私に受け継がれている。拓也素晴らしい恋をありがとう。あなたとの恋を高タンパク質にして、私の一部にするね。
「叔父さん、ありがとう。私も筋トレ始めよっかな」
「おお!いいじゃねえか!ほれスクワット、スクワット!」
「まず、お腹空いちゃったからこのゆで卵食べるね」
「バカ!ゆで卵はスクワット終わってからにしろ!」
私は叔父さんを無視して、ゆで卵を頬張った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?