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【旅エッセイ】長崎一人旅vol.9

「宗教」と聞いたら、勧誘に乗るな、入るな。そう言われていた人間だった。
それは日本の歴史上のテロ事件や、実際に蔓延るマイナスな噂が原因によるものだろう。近年ではそれらの家族が抱える問題にもクローズアップされるようになり、大きな事件さえも起こっている。ますます怪しさは募り、遠ざかるべきものとして捉えられている。それが世間であり、僕自身だった。
去年の12月。そんな宗教が身近にあったことを知ることになった。恋人に信仰があったのだ。付き合って半年が経つ頃だった。僕は大きく動揺した。彼女と話をした結果、彼女は僕に同じものを信仰して欲しいということ、そして僕はそれを信仰できないこと、互いが思いを話して別れる決断をした。僕は信仰を持っていると告げられた日からたくさんのことを考えた。僕が信仰を持っているという理由で彼女から離れるということは彼女が一番大事にしているものを大きく否定することなのではないか。そう思った。実際、そうなることからは逃げることは出来なかった。僕は真正面から彼女を傷つけた。
彼女と別れてから、宗教や信仰について考えるようになった。それはもしかしたら学ぶことで罪を滅ぼそうとしたのかもしれない。それでもそれから向き合うことから逃れることはできなかった。宗教二世を題材にした小説。宗教と哲学の学術書などを呼んで、少しでも理解を深めようとした。そんな日々の中で遠藤周作の沈黙に出逢った。それは衝撃的な本だった。
キリスト教弾圧化の中にあった日本、長崎で宣教などをしていた教会の司祭の話であった。数々の弾圧、信徒の殉教を目の前にして「神はなぜこんなときでも沈黙しているのか」という信仰を切り付ける内容。しかしながら、彼は結果キリスト教を棄てるのだが、それは心から神を信仰した結果だった。僕はこれを読んで涙が止まらなかった。それはまるで、誰かが僕の体を借りて泣いているみたいだった。

へとへとになりながら、天主堂に辿り着いた。
受付の人が待っていて、事前の注意事項の説明を受ける。見学には事前予約が必要で約束の時間よりも早く着いたのだが、見学を受け入れてくれた。世界遺産に登録されているのに関わらず、見学に来たのは僕一人であった。それほどこの場所が秘境の地であるのだろう。
中を見せてくれたのは男性のスタッフさんだった。今もなおキリスト教信徒の祈りの場として利用されている頭ヶ島天主堂。失礼の無いように見学中はスタッフさんに警備されていた。そこには少し独特な緊張感があったが、神聖なものである証拠であった。
堂内は明るく華やかな印象であった。柱には花模様が施され、4枚の花弁で十字を表しているという。窓にはステンドグラスが施されている。奥には祭壇があり、両脇に像が並んでいる。聖母マリアと聖ヨセフ。そこには確かに何かに護られている優しい空気があった。信徒たちは、逃げ、隠れ、こうやって絶えず信仰を続けていたと思うと考えさせられるものがある。
教会の椅子に座りながら考える。
僕は確かに、彼女の信仰を否定したのかもしれない。でもそれは信じることを否定したんじゃない。僕が信じるものを信じたいという自分の中の意思決定であった。自分が信じてるものが間違っているかもしれないし、ただ盲信していて、見えなくなっているのかもしれない。でも自分の価値観を信じたい。自分を信じて生きたい。それが、信仰だと思ったから。


自然の中にぽつりとある教会。蜂が神様などお構いなしに巢造りに最適なポイントを探している。人間は人間を難しくして、美しくしている。長崎で見たのは、人間達の足跡だった。その力強い足跡に、少しだけ自分の足跡をつける。

僕もまた人間の歴史の中にいる。

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