再生産される舞台、そして『私たち』——劇場版レヴュースタァライトに寄せて
それ以上でも、以下でもない。
この記事では、筆者が『劇場版レヴュースタァライト』を観劇して、感じたことや考えたことを熱情のまままに書き連ねていきたい。
一応、私と『スタァライト』の出会いを書いておこう。私はこの作品に触れて、精々まだ数ヶ月ほどしか経っていない。二年ぐらい前に演劇がテーマの作品ということでテレビシリーズを見始めた気がするが、結局は二話で打ち止めてしまった。映画を観に行ったのも、生来のミーハー精神とほんの少しの興味に過ぎなかった。
TVシリーズを流し見で見終えて、「大場ななが皆殺しするらしい」という訳のわからん情報だけを胸に電車に乗った。久しぶりの新宿駅に四苦八苦しながら、冒頭のキリンの如く上演時間のギリギリに席について観劇した作品に、私は見事にぶん殴られてしまった(私がアニメ作品に殴られる感覚を得たのは、『戦姫絶唱シンフォギア』を初めて視聴した時以来だった)。競演のレヴュー辺りで、もしかしたら今自分はとてつもない映画を見せられているのではないかという自覚が芽生え始め、館内に照明が灯った後には立ち上がることができず、しばらく溜息しかつけなかった。ただ感動という結果だけをそのまま与えられて、その場で呆けてしまった。
そんな稀有な体験を、生まれて初めて味わったのだ。
そこからは早い。気づけば、ほとんど毎週映画館へと足を運んでいた。六月、七月中はほとんど毎週映画館にいた。ほんの軽い足取りで踏み越えようとした沼が、底なしの深度で私を飲み込んだ。今ではすっかり大場ななの女になってしまったし、愛城華恋のことを考えると自然と涙が溢れるようになってしまった。見事にスタァライトされてしまったわけだ。
おそらく、本当に素晴らしい作品を目の当たりにして、冗長な言葉はただの雑味になってしまう。映画館での放映終了を目の前にして(まあ、全然終わりそうにないのだが)、私の胸はざわめいている。映画館で『スタァライト』を摂取できない日々を想像しただけで恐怖さえ感じるのだ。だから公開が終わってもなお、この胸の「キラメキ」を再生産し続けるために、私の武器である言葉と筆を手に取った。
場面ごとの感想や衝撃、解釈はすでに沢山の人が残している。だからここは筆者の好き勝手に、自分の語りたいことを語っていきたいと思う。
このレトリック過剰で“喋りすぎな“文章を世界へばら撒くこと。それこそが私にとっての祈りである。
あの時確かに見たんだ 弾けた星のキラめき
1,劇場版『少女⭐︎歌劇 レヴュースタァライト』とはどのような物語だったのか?
『スタァライト』という作品は、わざわざ紹介するまでもなく、聖翔音楽学園に通う九十九期生、九人の「舞台少女」たちの活劇を描いたキャラクターコンテンツである。一応は主人公に愛城華恋が据えられているが、それぞれの舞台少女の群像劇という側面が強く、物語を通して視聴者が「推し」を獲得することを主眼にしている。
しかし、アニメ版の物語、TVシリーズの総集編であり、再生産編集版と謳われるロンドロンドロンド(以下、ロロロ)、劇場版スタァライト(以下、劇ス)を通して、その主軸は愛城華恋、神楽ひかり、大場ななの三人にスポットが当てられたストーリーラインに収斂している。
TVシリーズは愛城華恋と神楽ひかりが、幼い頃に憧れた戯曲『スタァライト』の呪縛を断ち切り、再生産させた舞台を二人で演じるまでの過程を描いた物語であり、続く劇場版はその後の二人が互いへの依存を断ち切って、それぞれの舞台へと歩を進める、『少女歌劇 レヴュースタァライト』を演じ切るまでの物語である(ここに見出されるメタ的な入子構造については、後に論じることにする)。
そして、大場ななはロロロ→劇場版までの軌跡において、過去に固執する自分を再生産すると同時に、キリンと共に狂言回しとしての役を担う存在である。ロロロは大場ななが“選ばなかった過去へ捧げる”ために再生産した舞台映像(おそらく、大場映画株式会社の記念すべき第一作目)であり、その果てに舞台少女たちの死を垣間見た彼女は、劇スにおいて彼女たちを自らの手で再生産させるため、キリンと結託してワイルドスクリーンバロック(=皆殺しのレヴュー)を開演させる。表の舞台を司るのが華恋とひかりであり、表の舞台に裏から鈍い光を指して導くのが大場ななである(それを裏付けるように、劇スでは思い出の公園の滑り台、ロンドンの地下鉄の場面など、赤、青、黄色の三原色が印象的に用いられている)。
ここで一つ、話題を転換してみよう。TVシリーズの最終話において、なぜひかりは地下の劇場に囚われて、一人舞台を演じ続ける運命を定められたのか? それは、貧乏くじを他の誰にも引かせないため、彼女自身が他の舞台少女の「キラめき」を奪わないためであった。
そもそも本編で行われたキリンが主催する「オーディション」とは、実際どのようなものだったのか。最終話では、優勝者が手にする塔の頂の象徴のように扱われていた星のティアラが、実はなんの価値もなく、誘蛾灯として役目しかないという事実がひかりの口から語られる。
おそらく、スタァライトにおけるオーディションとは、レヴューによって他の舞台少女を下すことによって、キラめき=「罪」を奪い合うことを隠れた本質としている。
では罪とは何か?
それは戯曲『スタァライト』で唄われた六人の各女神の名、そして各レヴューのタイトルを冠する「激昂」「傲慢」「逃避」「呪縛」「嫉妬」「絶望」であり、現実において舞台人が舞台に上がるまでに抱えることになる感情のことである。ここまで書けば分かる通り、スタァライトではそれらの「罪」は薄汚いものと否定されずに、むしろ舞台に立ち、キラめきのために必要不可欠な“燃料“として肯定している。
だから、『星摘みの歌』では「星摘み(ホシツミ)は罪の赦し」と繰り返し歌われているのだ。それが“エデンの果実“=(毒)リンゴ=トマトという理路で繋がってくるわけである。
ひかりはオーディションに優勝しながらも、トップスタァになる未来を望むことなく、大場ななと同じように自らが望む運命の舞台に立つことを希求する。それが地下劇場であり、また悲劇を運命づけられた戯曲『スタァライト』の舞台である。
観客のいない舞台の上で、彼女はたった一人でキラめくことなく、半ば永遠に演じ続ける運命にあった。他の舞台少女の罪=キラめきを消費することなく、自らを軽率にオーディションに参加した罪深い(積み深い)存在として、憧れていた戯曲『スタァライト』をたった一人で演じながら、「星積み」をシーシュポスのように繰り返し続ける。観客、そして共演者として自らを再生産させた愛城華恋が飛び入りで現れる、その時まで。
以上の論点を念頭に置いて、劇スの物語を振り返ってみよう。先ほど書いた通り、スタァライトにおいて罪は肯定されている。だから劇スにおいて、罪の象徴的行為である「殺し(=皆殺しのレヴュー)」が、大場ななの手によって行われたのだ。
そこで舞台少女たちは一度死に、さらにそれぞれのレヴューによっても、象徴的な死が繰り返されることによって自らを再生産させていく。象徴的な死を迎えることによって、新たな自分を再生させる——これはまさに「通過儀礼」のそれである。ワイルドスクリーンバロックとは、原始的=“野生的“な通過儀礼のことだった。 競演のレヴューの最後にひかりは露崎まひるに対して「本物の舞台女優だった」と呼びかけるが、これは舞台少女たちが劇場版開始時に「舞台女優」へと移り変わる過渡期に立たされていたことを表している。
総括しよう。
劇場版スタァライトは、愛城華恋が永遠の安寧を否定し大場ななの再演によるループを断ち切ったように、舞台少女たちを「少女」という呪縛から解き放つための物語だったのだ。
2,「再生産」と「再演」
スタァライトにおいて「再生産」と「再演」は、特に象徴的な形で多用される概念である。基本的に前者は愛城華恋(”あ”いじょうかれ”ん”と”あ”たしさいせいさ”ん”)に仮託され、後者は大場ななに仮託される。そして、本編をご覧になった方ならわかる通り、両者は意図的に対置され、前者は肯定的なイメージで使用され、後者は物語の展開と演出的に、どちらかと言えば否定的なイメージが付き纏う概念である。
大場ななは、九十九回の聖翔祭で上演した『スタァライト』のキラめきに囚われ、オーデションを勝ち抜くことによって過去へと立ち戻り、あの眩しかった『スタァライト』の再演を志す。しかし、TVシリーズの八話、九話では「孤独のレヴュー」と「絆のレヴュー」で、再演によってもたらされる永遠の安寧と停滞を、自らを再生産させた愛城華恋と神楽ひかりによって否定され、彼女は打ち破られる。
ならばスタァライトという物語において、大場ななは敵役、また「再演」は「再生産」によって否定されるべき概念として描かれている……いや、そんなことはない、というのが私と大半の視聴者の所感だと思う。
ここで劇スを振り返ってみよう。劇スでは全部で六つのレヴュー、「皆殺しのレビュー」「怨みのレヴュー」「競演のレヴュー」「狩りのレヴュー」「魂のレヴュー」と「ワイルドスクリーンバロック終幕 最後のセリフ」が行われる。
この中で「怨み」と「競演」が特に顕著だと思われるが、劇場版のレヴューは基本的にTVシリーズのレヴューで描かれた関係性の繰り返しである。前者は花柳香子と石動双葉のすれ違いによって生じたレヴューであり、「約束のレヴュー」の焼き直しと言っていい。後者は神楽ひかりと露崎まひるによるレヴューであり、TVシリーズの「嫉妬のレヴュー」とは演者が異なるが、描かれるのは本編では有耶無耶だったまひるのひかりへの包み隠しのない感情の発露である。劇スにはTVシリーズの残響が鳴り渡っている。
それは「再生産」であると同時に「再演」の気配を感じるのは私だけだろうか? 劇スで行われる各レヴュー、そして劇ス自体、「再演」を繰り返してきた大場ななが「再生産」したロロロを経なければ、本来的に必要のなかった、彼女たちにとって再び演じる舞台だったはずだ。
上記の流れに沿って、ロロロに話を遡ってみよう。先に書いた通り『ロンド・ロンド・ロンド』は、大場ななが再演の果てに見た景色を舞台映像として再生産させた作品であり、ロロロは「再生産総集編」と銘打たれながら、舞台少女たちがTVシリーズと同じ舞台に立ち、その軌跡を描く、再演作品とも表現できるのである。
ここまで書けば私がなにを言いたいか、おおよその察しがつくだろう。
「再生産」と「再演」という二つの概念は、ロロロにおいて総合され、そして止揚されている。その地平において、片や祝福を担う言葉であり、片や呪いを担う言葉であるという両者の構造は引き裂かれているのである。より正確に言うなら、「再演」という概念がより肯定的に“再生”された概念が「再生産」である。
「再演」は大場ななが繰り返してきた数年間と共に、ロロロという作品が現実に「再生産」されたことをもって“賛美”された。続く劇スにおいても、その賛美は引き続かれており、両者の境界性は実に曖昧に描かれている(愛城華恋と大場ななの本性的な類似性、五歳でひかりと交わした約束に呪縛した彼女の口癖、「舞台少女、愛城華恋は日々進化中」の底なしの空虚さが暴かれてしまうのが劇スであった)。
大場ななが再演から決別したように、ワイルドスクリーンバロックが終幕を迎えた劇スの最終版では「アタシ再生産」の電光看板は打ち捨てられ、舞台少女たちはオーディション衣装を青空へ放り投げる。そもそも、聖翔祭という舞台装置自体が、三年間の『スタァライト』という作品の再演の中で、同じ舞台を再生産していく実に象徴的なイベントではなかったか。
だからこそ、劇スにおいて大場ななは、愛城華恋を自分だけの舞台を探し求めるように導き、あそこまで冷酷に他の舞台少女を再生産させることに躊躇いがなかった(それにしたって、やりたい放題言いたい放題し過ぎじゃないか?)。
二つの象徴的概念の相克が、それを司るキャラクターに見事に転写されていく過程を、スタァライトの物語全体を通して見て取ることができるわけである。
3,「再生産」される観客たち
劇スの冒頭は、解釈が一番難しい。愛城華恋とひかりの邂逅と並行して、キリンが津田健次郎の良い声をなびかせながら、塔へ向かって駆けていくシーンがある。「まに、まに、まに、間に合わないぃい」と慟哭しながら目的の地まで急ぐキリンの姿は、TVシリーズでの超然とした姿が嘘のように切実なものであった。ではこのシーンは、一体どのシーンと連続しているのか?
暫定的な解釈であるが、劇スの冒頭シーンはロロロのラストから繋がり、おそらく終盤、愛城華恋がオーディション会場でひかりと出会うすぐ前に連続していると思われる(ひかりが聖翔を去った場面のイメージという解釈できたが、口上が明らかにワイルドスクリーンバロックありきだったので多分違うだろう)。冒頭でひかりからなぜ舞台に上がる理由を問われて塔から突き落とされ、終幕に再び塔を登って「私にとって、舞台はひかりちゃん」と答えを出す。だから冒頭では東京タワーそのものからポジションゼロが溢れ出し、終幕ではCaliculus Brightに貫かれ、最後のセリフを放った愛城華恋の胸からポジションゼロが溢れ出す。
ならばキリンのシーンは、「競演のレヴュー」終えたひかりとキリンが対峙し、キリンが糧となって焼き尽くされるシーンの後なのではないか。私は、そう睨んでいる。ならばキリンは彼女の糧となった後、再び蘇って、ワイルドスクリーンバロックの終幕ないし、ひかりと愛城華恋の最後のレヴューを見届けるために、あそこまで必死に急いでいるのではないか。
以下の考察、というより妄想は、上記の推測の元に成り立っている。そもそもキリン、彼——ちなみに私はスタァライトのキリンメス説を推している。声は津田健次郎だが、そもキリンの声帯と人間のそれが同じはずがない——はどういうメタファー存在なのか。TVシリーズの最終話と劇スの発言から、彼は観客席に座る視聴者、あるいは舞台を成り立たせている資本——カネ、モノ、ヒトを内包した存在であることがわかる(五話ではキリンが飲んでいる水溜りの底に、これみよがしに小銭が散らばっているシーンが挟まれている)。舞台は役者だけではなく、観る者がいて初めて成り立つものである。それがスタァライトという作品全体を貫く一つのテーゼであると考えられる。彼はそのために、いなくてはならないキャラクターだった。
——舞台とは、演じる者と観る者が揃って成り立つもの。
演者が立ち、観客が望む限り続くのです。
そう、あなたが彼女たちを見守り続けてきたように。
キリンは第四の壁の奥を見据えながら、そう嘯く。作品の登場人物であるキリンがこちらに呼びかけることで、『レヴュースタァライト』を観劇する私たちも強制的に彼女たちと同じステージに立たざるを得ない。虚構という存在的差異を超えて、我々にどこまで行っても現実という舞台の上でしかないという事実を突きつけてくるのだ。
では劇スのあの描写を我々は、どう受け取るべきなのか。
舞台に立つことで再生産されるのは役者たち(舞台少女)だけではない。それを享受する観客、あるいは支える人々たちも、素晴らしい作品、胸から湧き上がる感動を前にして自らを再生産する。舞台の上で自らを消尽させ、演じる彼女たちのように、情熱を燃やし尽くして糧として差し出しても、再び蘇って次に情熱を傾ける自らの舞台、あるいは作品へと向かう。
作品を受容し糧にして生まれ変わるのは、キリンたる我々も同じことである。彼の目的は、ただ素晴らしい舞台と舞台少女のキラめきを浴びたいという、ただそれだけの単純な理由だった。
ここからはしばらく思弁的な内容が続く。我々は自らの世界を善きものたれと祈る、描くあれかしと祈るからこそ、与えられる美しさと感動に胸を焦がして作品を消費する。だからこそ、スタァライトに登場するキリン、そして我々の境界線はどこまでも曖昧なのである。
私たちは了解も同意もなく、ただ世界へ巻き込まれたという結果だけ与えられた、哀れな役者にして運命の道化だ。『劇場版レヴュースタァライト』という作品で掲げられたあのテーゼは、舞台の向こう側の我々をも巻き込んで、世界への祈りを照らし出す。スタァライトという作品は、その輝きに触れた我々に語りかける。
”なにを燃やして 生まれ変わる”。
キリンは私たちの写し鏡。彼は今日、今、この瞬間にも、私たちに問いかけているのだろう。
列車は必ず次の駅へ——
では舞台は?
『あなた』たちは?
4,『私たち』はもう、舞台の上。
世界劇場。役割理論。
実存主義は打ち捨てられ、そんな言説は今やすっかり使い古されて陳腐なものになり果てた感がある。「この世は舞台、男も女もみな役者」という、シェイクスピアの言葉に耳を貸す人間は、きっともうほとんどいない。
劇スに感銘を受けた者の反応は、およそ二種類に分けられると思う。
先に書いた通りに、愛城華恋と大場ななは本性的な似た者同士である。彼女たちは『スタァライト』という舞台の眩しさに目を焼かれ、そのキラめきに呪縛されていた。二人が違ったのは、愛城華恋がひかりと共に未来を指向したのに対して、大場ななが時間を巻き戻しても決して取り戻せない過去を指向したという点にある。それはまた、(制作者の意図に反して)劇スに感銘を受けた我々にも当てはまってしまう。
あの時、目に焼きついた感動を求めてゾンビのように劇場へ足を運ぶ者(つまり筆者のような人間である)、あるいは作品から得たメッセージをしっかりと享受して次に人生の舞台へと足を踏み出す者。それはある種のパラドックスである。作品を愛すれば愛するほど、その愛ゆえにその本質を把持して、離別を良しとしなければならない。まさに『劇場版レヴュースタァライト』作中で大場ななが陥った境地ではないか。
最後に、始めの節で軽く触れたスタァライトの入子構造について触れていきたい。
劇スでは愛城華恋の人生の一端が描かれ、終盤に彼女は自らが『レヴュースタァライト』を演じていたことに気がつく。つまりTVシリーズ、及べ劇場版二作品の『(レヴュー)スタァライト』自体が、ひとつのレヴューであったことがそこで明かされるわけである。ここでもっとメタ的な視点を導入しよう。スタァライトという作品の特異性、それはアニメーションという媒体と生のミュージカルという媒体が平行に展開されていく、「二層展開式少女歌劇」を標榜したコンテンツであるという点にある。ならばそのどちらもが、レヴューというスタァライト独自の形式によって、入子構造のうちに統合されていると考えるべきである。
スタァライトの瞠目すべき価値は、埋めがたいメディアの差異を「レヴュー」という作品独自の形式の絆によって、限りなく接近させることに成功している点にあると言える。(さらに言えば『スタァライト』というシリーズ作品群を一つの連関する力場として捉えれば、レヴューという作品性、『スタァライト』という作品そのものが互いに互いを呑み込み相克し合う、クラインの壺的な構造にあることも指摘できるが、流石に話が込み入り過ぎるのでこれ以上は止めておく)。
アンリ・グイエの「演劇においては、我々が現実と読んでいるものにおけると同様、全てが繋がり合って総体をなしている。上演とは総体の現前化である」という言葉は、スタァライトという作品の本質をよく表している。生の舞台とアニメの総合を果たすのに、演劇ほど都合の良い題材はなかっただろう。
演劇は時空間芸術である。「今、ここ、この」という契機が揃って初めて舞台は成り立ち、特有の価値が生まれる。どんな舞台も一度きり、その一瞬で燃え尽きるから、愛おしくて、かけがえなくて、価値がある。アニメーション映画という媒体でありながら、『劇場版 少女⭐︎歌劇スタァライト』という作品には、その精神が確かに宿らせた、紛れもない傑作だった。偶然にもそんな作品に出会えたことに、今一度感謝と祈りを捧げたい。
余談。劇スで再生産を果たした愛城華恋の口上、「愛城華恋は舞台にひとり」はひかりとの決別を意味するだけでなく、存在論的な意味で愛城華恋という人格はひとりしかいないという決意とも受け取れる。『(レヴュー)スタァライト』という作品の主人公を演じ終えても、愛城華恋というペルソナは唯一無二であり、何が失われるわけでもない。それは二次元の舞台の上でも、三次元の舞台の上でも変わらない。
そんなことを思うのは、いささか理屈に欠けるだろうか。
締めの文言は、始まりのあの曲の一節で締めたいと思う。
あの頃には戻れない なにも知らなかった日々
胸を刺す衝撃を浴びてしまったから
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