見出し画像

生活実感の中から「国や社会をどうしたいか」を考える           #自分ごと化対談(小説家 平野啓一郎氏)≪Chapter2≫

※本記事は、YouTubeで公開している自分ごと化対談【『生活実感から、市民社会をどう作るのか』】 https://www.youtube.com/watch?v=yr86REjZ-OE&t=950s  について、Chapterごとに書き起こし(一部編集)したものです。

怒るアメリカ人 怒らない日本人

<加藤>
(Capter「1社会課題を「自分ごと化」するとは」の)お話伺っていて、2つのことを考えていました。

1つ目は、アメリカ合衆国のトランプは酷い大統領であったことは間違いない。だけど、何が問題かというと、投票した国民の半分はトランプに入れたという問題ですよね。これはトランプでなくなっても変わってないわけですよね。

 一方で、「トランプを選んだアメリカ人は愚かだ」というようなことを、日本のメディアも流していました。それでもやっぱり考えないといけないのは、アメリカのああいう労働者は怒っているんですよね、彼らは、確かに教育水準も低いのかもしれない。だけども、怒っているんですよね。

 日本人にはね、あんまり怒る人がいないんですよね。モリカケの問題だって、コロナだって、そうとう酷い話ですよね。怒るべき時にもへらへらしている感じがするんです。これは何故か?やっぱり他人(ひと)ごとだからなのですね。

 だからこの、怒れよ!っていうね。もっと、日本人は怒らないといけないんじゃないかなあというのが、1つなんですね。

 2つ目は、自分ごと化会議をやってよく思うことです。

例えば、ゴミの問題があって、ある町でゴミの焼却場を作り直さないといけない。それには50億円かかるとします。どうするか。ここにこういうものを作りますと行政が決めるわけですね。そして説明会をする。そうすると、その説明会に100人のまちの人が来るとすると、来る人というのは賛成する人か、ダメだと反対する人か、どっちかなんですよ。“あいだ”の人はあんまり来ないんですよね。で、反対する人っていうのは、何を言うかというと、そうなると周りに煙がどうだとか、騒音がないのか、ゴミがまき散らされないか、そういう質問をする。それに対して、行政はいやいやちゃんとやっていますという、よくあるパターンです。結局、ゴミ焼却場の問題以上の話にはならないんです。

 我々が無作為に選んだ住民でゴミの問題を議論しようというときには、「なんでゴミの問題を議論するか」というところから始まります。今の焼却場ではもたないから、お金かけて新しい焼却場を作ろうかという話になることもあります。その前にまずゴミの問題を議論しようと。焼却場も問題の対象ではあるんですけど、議論の内容が全然違うんですよね。

 住民はゴミを捨てるだけだけど、ゴミ処理というのは捨てられたゴミを集めて、焼却場に持って行って、持って行って燃やしたものを、またどこかに埋めるとか捨てないといけない。すごく長いプロセスのうち、俺たち住民は今まで「ごみを捨てる」ことしかやっていなかった、色んな人がいっぱいお金をかけないとゴミ処理はできないんだなあということに気付くのです。

 こういう議論を経験すると、今度から靴を買った時にはもう箱は置いてこようと、自分の生活の話になるんですね。ゴミ処理場が良いか悪いかという前に、自分たちがゴミを出さないように、という議論になります。私はそこのプロセスが重要だと言いたいのです。このことは、ゴミじゃなくても、原発だって、基地だって全部同じだと思うんです。これまでは、自分の生活と行政の課題というものの間が、やっぱりスポーンと抜けていると思うんですね。だから怒る事もしない、ということにも繋がると思うんですよね。 

「政治」に関わらずに育つ日本の若者たち


<平野>
これは世代によっても随分と違うのかもしれませんが、僕は1980年代~90年代前半までに小学校・中学校・高校を過ごしました。この頃にはすでに、学校の中に“政治的な雰囲気”というものは全くありませんでした。大学は京都大学だったので多少残っていましたけど、一時期みたいに激しい学生運動があったわけでもない。そうしますと、自治とかシステムにアクセスして自分たちの生活が向上するみたいなことを、教育の中で経験したことが一回もないんですね。

 だから、学校には名ばかりの生徒会とかありますけど、実質的に生徒の生活が良くなるようなことを生徒総会とかで話し合われるということもないですし、校則の髪型の規定をもうちょっと緩くしてほしいという提案を出しては職員会議で却下されて終わるとか、僕の通っている学校ではそれぐらいだったんですよね。

 もうちょっと通いやすい学校にするとか、ここが不便だとかいうことを、生徒が提案して、学校もそれを受け止め話し合って、これだけ良くなったみたいな成功体験というのが一切ないのです。そのまま、大学生になって、有権者になって、じゃあ一票投票して政治参加しなさいと言われても、それが一体何なのか、経験的にも、理屈的にもわからない。その時に、学校の自治とかに関与したという経験がないまま一票を投ずるというのは、結局、“誰かが”“何か”をやってくれる、ということ以上の意味を持たないと思うんですね。

 そして、いざ投票する政治家がどういう人かというと、例えば子どもの時から親が参加するタウンミーティングとかでディスカッションしている大人とかではなくて、盆踊りとかに来て何か頭下げていたとか、偉そうな何とかさんの息子さんがとか言って、どうでもいいような話をするオジサンぐらいの印象しかない人なんです。政治家のイメージというものをほとんどの人が持たないまま大人になっている。

 例えば父兄にしても、学校側にいくらお金を払わないといけないかを知らない。学費を納めるということであれば、学校行事のつまらないことはやる必要無いとか、こういうことして欲しいというような形での参加もできるはずですが皆無です。

 だから、やっぱり生育、成長の過程での政治との関わりが大切だと思います。東京にいれば、多少中央の政治に近いようなところもありますけど、地方にいると本当にメディア越しで見ているだけで、自分の生活のなかにも、全然政治的実践の場がないまま大人になっています。

僕は住民自治の根本のところで、本当に自分の生活のなかで自分の意見を考えていくという機会がないということと、もう一つは成長の過程で政治的な教育も、経験もないということが、やっぱり大きいのではないかなという気がします。

 <加藤>
日本の学校というのは、政治と宗教の話はしないみたいになっていますよね。どっちも凄く大事で、そこをやれよということだと思うんですけどね。というのは、政治というのは“生活そのもの”ですから。

最初に平野さんおっしゃった「公共」、1人じゃないわけですから。いっぱい人が居て、人間というのはみんな勝手なことを言うし、したいわけですよね。勝手な人ばっかりが集まって、それでもみんながそこそこ納得するようにしていくのが政治ですから、本当に生活そのものですよね。それを調整するわけですから“他人(ひと)ごとじゃない”わけですけども、政治に関する教育を一切弾いてしまうという問題は大きいと思います。

 要するに、「政治」という言葉を取り違えているのですね。、政治の中身ではなくて、政党とか、選挙とか、政治家をどうするとか、政治家の考えとか、それを政治だと思っているんですよね。そこですでに中身が抜けているわけですよね。その人たちが考える中身、議論する中身、多数決で決める中身が大事なのに、政党や政治家の行動などその枠の方が政治だと思っている。だから学校では、政治の話をすると公平ではないみたいな意見が出ます。それで、排除しているんですよね。宗教もそうだと思いますけど。日本では「政治」という言葉のニュアンスに誤解があると思います。

 その背景として、日本の第二次世界大戦後の政治というのが、ある意味ではうまく行き過ぎたのかもしれないです。国民が政治に関わらなくても、経済成長して豊かになったし、戦争になりそうだということも無いし、ほっといても良いやという状況が続いて、政治がどんどんどんどん、“他人(ひと)ごと”になっていった。そういうベースの部分と、教育の中で政治をちゃんと教えなかったということかなと思いますね。

 <平野>
やっぱり市民革命で勝ち取った権利ではないことも一因ではないでしょうか。人権という概念も、明治になってから輸入した概念です。市民革命というものは、ユニバーサルなものを掲げて闘うものであって、人権のような普遍的と言うか、一国的な価値観を越えるものを掲げて、市民というのは戦うはずです。それが、市民が国家権力と対立する時に、1つの大きな根拠になるのですけども、日本ではその理解が非常に浅いのです。

 例えば“シチズンシップ”と“ナショナリティ”との区別さえついていない人も沢山いますよね。だから、外国人の参政権の問題を考えるにしても、市民としてその社会の中に住んでいる外国人が権利行使をするということと、国籍が日本であるかということは、別の次元で考えなきゃいけないことだとさえ理解できない次元で、議論が進められていいます。やっぱり僕は、生活実感の中から、市民としての生活の積み重ねのうえに、「この国はどうしていくのか」ということを考えていくことが大切だと思います。

 当然国家のような大きな単位では、外交とかの問題はありますから、そこでの利害調整というのは行われなければいけないはずなんですけど、大きな単位で物事を考える際には、生活実感のなかで、どういう風に、自分たちの現状を良くしていくかというところで、考える事が面倒くさくなって、お任せという状態になりがちだと思うんですよね。

 <加藤>
他に楽しいことがまちにいっぱいありますからね。それに「みんなのこと」と「自分のこと」が、表裏一体だという感覚がないんですね。その感覚がなくても良い時代がずっと続いてきたというのは、ある意味では、有難いんでしょうけど。

 フランス人なんていうのは、ものすごいエゴの強い人たちですよね。ところがストライキなんかにはかなり寛容ですね。あれは、給料が下がったらいけないから、バスや地下鉄を止めてやっている。みんなのためにやっているんだからしょうがないよね、という感じが有ります。日本の場合、電車バスが止まったら、多くの人が、被害者だという感じではないでしょうか。

 <平野>
ありますね。パリに1年住んでいて強く感じたことは、フランス人は、すごく個人主義的だけど、同時に共和国の市民だということですね。だから、“フランス共和国価値観”というものが国民の根本にあるというのは、日本なんかよりもはるかに強く感じますし、日本の同調圧力というのともちょっとまた違うんですよね。

 <加藤>
違いますよね。なんかね。

 過去の自分ごと化対談はこちら

・第一弾 JT生命誌研究館名誉館長・中村桂子氏
・第二弾 プロ登山家・竹内洋岳氏
・第三弾 小説家・平野啓一郎氏

  https://www.youtube.com/playlist?list=PL1kGdP-fDk3-GPkMkQsCiYupO4L9rS3fQ

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?