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「生き物としての人間」の視点から私たちが直面する問題を整理する  #自分ごと化対談(生命誌研究者 中村桂子氏)≪Chapter1≫

※本記事は、YouTubeで公開している自分ごと化対談【「命」か「経済」か?コロナ禍で顕在化した社会問題を『生き物としての人間』の観点で議論する】(https://youtu.be/5cEd33Vbp0I)について、Chapterごとに書き起こし(一部編集)したものです。

ツルツル世界とザラザラ世界・世界二制度のすすめ

<加藤>
今日は生命誌研究をなさっている中村桂子さんにお越しいただきました。中村桂子さんにはゲノム研究から始まり、生命誌研究とはどういうことなのかということを伺えたらと思います。

私が出した本を元に対談シリーズをやっていこうと考えたため、その本の主旨をごく簡単にお話します。

我々が今いる社会がツルツル、東京も世界もツルツル、ツルツルを通り越してピカピカ、それに対して「ザラザラ世界」というものを考えてみる時期に来ているんじゃないかということです。大きいところで言うと地球環境問題から、個人の引きこもりとか鬱、自殺まで、全部一貫する背景があるのではないかと思っています。
我々はこの50年間で、経済的に豊かになったわけです。経済成長を進めるためにいろんなものの自由化をやってきた。確かにとても豊かで快適で便利な世界になった。それとセットでグローバル化が進んできた。国と国との垣根を取り除いて、デコボコザラザラだったものを磨いてツルツルにして、お金も物も人も、なるべく早く直線距離で行けるようにして、経済成長を促進した。そうして、ツルツル化を進めてきた50年、70年だった。

しかし、そのことの弊害が凄くあるのではないか。ツルツルになってスピードが早くなり不安定になって、そこに追いついていけない人の数が圧倒的に多くなっていると思うんです。

トランプ現象の裏にあるモノ

アメリカのトランプを支持してる人たちは、必死なんです。このツルツル世界の中で置いてけぼりをくって失業したり、生活をどうしてくれるんだという、あれは悲痛な叫びなんだと思います。なので、トランプを問題にするよりも、トランプに投票せざるを得ない状況の方がはるかに深刻であって、日本だってヨーロッパだってそれは変わらないのではないかと思います。我々が取り除いていったデコボコザラザラというのは何だったのか、一言で言うと「人間的な生活」、中村さんがずっと前から仰っている、「生き物としての人間の部分」、「生き物としての人間の営み」から出てくる色々なものがザラザラだったんじゃないかと思うんで。

それをもう1回取り返して、ツルツルをすぐにやめるのは無理ですからツルツルとザラザラが両方あって、人はどちらにでもいけるという仕組みを考えてみないか。
ザラザラの生活というのは、お金が一番大事ではなく、経済成長がなくてもやっていける世の中。そうすれば民主主義の仕組みとか、あるいは我々の国の仕組みとかもこれまでとは違うものが考えられる、というようなことを書いた本です。

アメリカで生まれた「Life Sciences」日本で生まれた「生命科学」

<中村>
(本を)読ませていただいて、本当に面白かった。実は、「生命科学」という言葉、これは1970年に生まれた言葉で、これは私の先生の江上不二夫先生がお作りになったものです。

それまでは生物学というのは、人間以外の生き物しか扱わなかった。ところが DNAが出てきたから、人間も生き物として考えなければいけない。そうするとそこで人間も入れた生命科学というのを考えなければいけない。遺伝学、細胞学、脳科学と色々と別れていたんだけれども、DNAをベースにすれば全部一緒に考えられるから、総合的な生物学をやろうと。けれど生物学者が「人間」やりますなんて言ったら、研究室の中に人間を入れて実験しますということになるので、これまで生物学で人間を扱うなんてありえなかったのですけれども、とにかく「人間」のことまで考える学問をやろうということになりました。


日本で公害と呼ばれた環境問題が起きたのは、我々生物学者が生き物のことをきちっと考えた科学技術を提案していないからだとおっしゃって、人間を考える科学技術に「生命」の考え方を入れる総合的な生物学「生命科学」という言葉をお作りになったんです。それが1970年なんですね。そこへ、(江上)先生が誘ってくださって、その研究所に入ったのが私のキャリアの始まりです。

ザラザラの世界へ飛び込んで以来、ずっととにかく人間は生き物だっていうことを考えて、やってきました。

基礎生物学から技術も社会も考えていかなければいけないというのがスタートで、まったく新しいことを考える役割を与えられたのです。

10年ほどやっているうちに、この問題を考えるには科学自体が変わらなければいけないことに気づいたのです。
どうも「生命科学」では先生の思いは実現できない、先生の仰ったことをきちっとやるためには、「科学」から「誌」に転換し、「生命誌」でなければダメだと自分で考えて、新しく「生命誌」を始めました。

面白いことに、実はまったく同じ年に「ライフサイエンス」という言葉がアメリカで生まれています。
アメリカで生まれたライフサイエンスは、生物学と医学を合体させました。それまでは医学と生物学は違っていて、医学は現場主義だったんだけど、科学として DNAが分かってきて、癌とかの原因をどんどん解明していかなければいけない。そうすると医学と生物学を合体させる必要がある。具体的にはバイオメディスンということで、 NSF※の予算枠に「ライフサイエンス」を作ったんです。※アメリカ国立科学財団(英: National Science Foundation, NSF)

それでライフサイエンスという言葉がアメリカで生まれたんです。日本では全然違う意味で、江上先生が「生命科学」をお作りになって、でも英語のライフサイエンスを訳すと生命科学になりますね。
実は今の日本で「生命科学」と言っている99%はアメリカのバイオメディスン型なんです。

医学を科学技術化してきたのが、バイオメディスン(生物医学)。
私は先生の仰った生命科学を具体化していこうと思って、残りの1%で一生懸命やっているのが実態なんです。世界的に見ても、もちろんアメリカ型が生命科学のメインですから、ツルツルの方へ行っちゃうんですよね。本来は生き物だからザラザラなはずなんだけど、全部ツルツルの方へ行っちゃう。

もちろんアメリカにもいいところはあるし、医学の技術化は必要です。癌や生活習慣病を治しましょう、認知症を予防しましょうって言ったら科学技術は必要なわけですから、それを否定することはないのですが、やり方がツルツル型。やっぱりそういうことも全部ザラザラ型の方で考えて欲しいなというのが私の思いです。

ですから、大蔵省ご出身の加藤さんがザラザラ型の方を向いてくださってることは私にとってはありがたいこと。大蔵省(現財務省)は、ツルツルの典型じゃないですか。


コロナ禍 「生命」か「経済」かの問い

<加藤>
どうなんでしょうか。ある意味ではそうなんでしょうね。
ツルツルともザラザラとも考えずにあっち(欧米が作った方向)が正しい。本当にそうかな?と思ってる人もいるのですが違う方向を向こうとすると、時々アメリカからバカンと殴られますから、わかりましたとそっちに行く、そういう50年だったんですね。

最近よく言われてる企業のコーポレートガバナンスとか会計の方式とかも日本はアメリカとは大分違う仕組みを持ってたんです。それはこの言葉で言えばザラザラ的な、もっと人間関係を大事にしましょうとか、会社の儲けは株主だけのものじゃないでしょうと。従業員もいるし取引先もいるし世間にとっても、それこそ近江商人の昔から言われている三方よしの話とか、そういうのが大企業の中にもあった。それが、ここ10~20年の中で方向転換してきた。
一つつけ足すと、その欧米が突然SDGsだESGだといって、かつての日本が言ってた方向に急転換して、日本はまた慌てて方向転換しているのですが。

会社に関するルールというのは、世界中が経済中心ですから、その経済を動かしてる主体は、やっぱり企業、特に大企業ですよね。そういう企業経営のルールというのは、世の中の流れにものすごく大きい影響があるわけです。

それでツルツルの方にどんどん来て、自由化は良いものなんだ、それがもっと経済成長を加速するんだ、そのことが我々を豊かにし、それイコール幸せなんだと。経済学はそういう前提ですね。
そうした中で日本の企業も、企業の従業員も動いてるわけですところが多くの従業員はその中で実は窮屈で、なんか居心地が悪くなって、はじき出されている人も増えている。最初に申し上げた地球環境問題から鬱とか引きこもりまで共通する背景。私はそこに、まさに今のツルツル方向に行く道、それが凄いストレスになっているというのを感じるんです。人間的じゃない人間を求めている、効率を求めるという感じがするんです。

<中村>
「生命科学」の始まりに環境問題があるというお話をして、加藤さんも地球環境問題というのを大きく考えていらっしゃいますけれども、今そこに大きな問題としてコロナウイルスのパンデミックが加わったわけですね。今、政府が取っている政策を見ていると、「命」か「経済」かというわけです。

私は「命か経済か」って言われると、「えっ」て思うんです。
だって私たち一人ひとり生まれてきて、そして「生きる」ためにみんながいるわけで、生きるために食べていかなければいけない、何か楽しいことも欲しい、それを支えるために経済があるのであって、経済と命が対置されるのはおかしいじゃありませんか。

「生きる」ということが「社会」ですよね。より良く生きるためにそれを支えてくれるのが経済なのに、どうも命か経済かと言っている方達は、「経済優先」というニュアンスでおっしゃってる。

コロナが出てきたために、そういう矛盾が地球環境以上に明確に出てきたと思うんです。ここで、命に目を瞑ってまで経済だという結論は人間としては出せないはずだと思っていて、ここまで来たら、皆さんお考えになるんじゃないか。そうするとツルツルっていうのにものすごく問題があったんだと気づくんじゃないかと期待しているのです。

ザラザラというほうは、正直言って毎日の生活を考えてみても、面倒ですよね。生き物とか命と言うと、皆さん素晴らしいとおっしゃるけれど、ずっと生き物と付き合ってると、生き物ってものすごいへんてこでめんどくさいものだってすごく思うんです。なんでこんな生き物がいるの?っていうのがいたりして。だから生きていくってものすごく面倒なことじゃないですか。

たとえば、食べることのために生き物たちみんな一生懸命なんだけど、そのために仕事や何かやってて、食べるという事がもしなかったら楽だろうなと思うけど、食べずには生きていけないようにできてるでしょ。
しかもそのためには、生きものを殺さなければならないのですから。今我々が豊かさや便利さを求めている現代社会の価値観から見ると、面倒なことばかりなわけです。

手をかけるという言葉がありますよね、手を掛けるって言うのは、ツルツル世界ではマイナスの言葉です。手がかかるものは全部マイナスです。でもザラザラ世界は手をかけることに楽しみを見出す。「生きる」って「プロセス」なんですよ。

プロセスだから時間をかけることを楽しまないと生きてることにならない。あんまり効率って言われると、生きることを否定することになる。だって効率から言えば産まれた子は早く育っちゃった方がいい子なわけだけど、そんなことできないでしょ。

1歳の子が急に10歳になったらいいかって言ったら、やっぱりそれぞれ1歳2歳3歳ってプロセスを踏まないといけない。プロセスに意味を見出して、しかも楽しみを見出して、ある種そこが幸せにまでつながっていくっていう、そういう価値観みたいなものを持っていないと、全部面倒になってこっち(ザラザラ)を切り捨てていく。

命ですか経済ですかって言った時に、面倒さのことを考えたら命、つまりザラザラを切り捨てたくなってしまいますよ。でも私たち、生きるってことを否定したら、どこに意味があるのっていう根本のところまで戻って考える必要があると思うんですね。

過去の自分ごと化対談はこちら
・第一弾 JT生命誌研究館名誉館長・中村桂子氏
・第二弾 プロ登山家・竹内洋岳氏
・第三弾 小説家・平野啓一郎氏
 https://www.youtube.com/playlist?list=PL1kGdP-fDk3-GPkMkQsCiYupO4L9rS3fQ

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