やさしき人たちの香港

 香港映画『七人樂隊(SEPTET : THE STORY OF HONG KONG)』を観た。
 香港を代表する映画監督七人による短編集。古き良き時代の香港へのオマージュとも言えるが、全編を通して温かな感情がにじみ出ていた。
 
 私自身、90年代の返還前の香港にはよく通った。だから香港での記憶は私にとっては人生の中の大切な一部なのだということを実感させられた。

 それは、中環(セントラル)の喧噪や旺角(モンコック)の露店、太古(タイクー)あたりの日系スーパーの景色や人のざわめきでもある。

 しかし、思い出してみて、一番こころに残っているのは、香港の市井の人々の「やさしさ」だ。

 大陸中国の人も知り合いになると「極めて」親切だ。でもその裏には見返りを当然視する雰囲気を感じてしまう。

 香港はかつて英国の植民地であったから、社会の階層は「英語を話す香港人」と「広東語を話す香港人」とに分かれる。

 はじめて香港を訪れた時に最初に宿泊したのが香港大学のRobert Black College という外国人訪問者が泊まる大学の施設である。高台の静かな環境にある質素な部屋であった。フロントの香港人の職員は当然のように英語で話してくる。
 朝食は英国風のモーニング。しばらくして、研究者らしき白人男性が食堂に現れる。英語での挨拶は必須である。ここが植民地香港であることを実感したものだ。

 その後、香港を訪れるたびに、感じたことは英語を話す香港人も広東語を話す香港人もとても親切であるということだ。香港史の調査で資料を閲覧させてもらっていた資料館では、給仕係らしきおばさんがしばしばお茶を持って来てくれた。私は当時まだ広東語ができなかったので、きちんとお礼が言えなかった。三年後にまた訪れた際も覚えてくれていて、菊花茶を入れてくれた。その時は片言の広東語でお礼を言ったら、とても喜んでくれた。

 数多くの研究者と知り合ったが、今でも交流のある香港の友人がいる。
3年ほど前、私がガンを患ったことをラインで伝えたところ、一週間後、突然、彼が妻とともにわざわざ京都まで見舞いに来てくれた。

 ただ、そのことだけのために。

 この時ほど感動したことはない。やさしい友人を持てたこと、それだけで生きていてよかったと思えた。

 戦後、ある者は大陸の共産主義を嫌い、またある者は経済的理由から香港、さらには海外へ出稼ぎに行くのが普通だった。香港では多くの人が難民的な存在だった。人生の悲哀を背負った人々は家族を大切にした。そして、80年代には香港という土地を自らの故郷として大切にしてきた。

 そのような故郷としての香港が今、「歴史」になりつつある。
「やさしき」人々がつくってきた香港を過去の「歴史」にしたくはない…。
 そんな想いで『七人の樂隊』は作られたように感じた。

 その友人は今でも香港に住み続けている。



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