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#2 短編小説 驟雨のち

驟雨のち


「言葉が全てなんだよ」
君のその一言を、僕は今でも鮮明におぼえている。あれは小学校五年の時、何気ない日常の一コマだった筈の給食時間、よく喋る仲だった君が僕に向かって放った言葉だ。どのような文脈でその言葉がでてきたのかは忘れてしまったし、或いは全くの突然出てきた言葉だったかもしれない。僕は直ぐに、そんな筈はないよと一笑に付した――その真意を知ろうともせず、ただ言葉だけを捉えて。これが壮大な皮肉であることに気付いたのは、君が死んで半年後、僕が失意からようやく立ち直ろうとしていた高校二年の冬だった。
それまで早熟の天才は夭逝するということも知らずに生きていた僕にとって、君が病に伏せてからの一年は驚くほどあっという間だった。そこから先は誰もが想像する通り、僕は長く親しんだ人を突然失った一人の人間として至極真っ当に苦しんだ。「胸を締め付ける悲しみ」は比喩ではなく、本当に心臓が握られている感覚になることを知った。僕の枕がぺしゃんこで、寝室の壁が穴やへこみだらけ(賃貸じゃなくて良かった)なのは、君が居なくなった夏の間の苦悩の代償だ。だけど不幸中の幸いと言っていいのか、僕の両親だけでなく君のご両親も支えてくれた――君が死ぬのは避けられなかったこと。残された僕らは、当然悲しいけれど、それでも生きていくべきこと。弔うというのはお墓参りのことでも追慕を募らせることでもなく、偲びながらより良く生きようとすることであること――菩提を弔うために家を訪ねるたび、こういったことを時間をかけて丁寧に諭してくれた。泣きじゃくる僕をそっと見守ってくれた。そのお蔭もあって僕は何とか立ち直ることができ、同じ年の秋にはささやかな日常が愛しく思えなくもないくらいにはなっていた。
それから少しして僕は、気が狂ったように本を読み漁り始めた。死を扱う作品は特に熟読した。なぜ読書という方向に向かったかは覚えていないが、巨大な喪失感と戦わざるを得なくなった僕にとっては必然だったように思う。初めは語彙の壁にぶつかったり、緻密な暗喩や古典的な修辞を読み解くのに苦労したりしたが、理解力が高まっていくにつれて深みのある文章の魅力の虜になり、読めば読むほど読書が楽しくなっていった。いきおい、観念的な考え事が増えた。言外の意図、行動や行為の持つ意味、人間の心理……今まで自分がいかに多くのことを見落として来たかを考えると愕然とした。
そうしてふと気が付いたのが、言葉が全てなんだよ、という君のあの発言である。何とは無しに憶えていたその言葉は、長い時を経て新たな意味を携えて鮮やかに蘇った――「言葉が全てなんだよ」君があの時、揶揄からかうつもりで言っていたことが五年越しに閃かれた。僕があの時、まんまと「言葉通り」受け取って君の考えの浅さを一笑に付したその時、君は心の中でほくそ笑んだに違いない。「……してやられたなあ」そう呟いた僕の心の中に、君の満面のしたり顔が浮かんだ。

記憶は廻る。

中学二年の時、小学五年生の時ぶりに同じクラスになった。六年生の時にクラスが離れて余り喋る機会が無くなり、中学に入って周囲の人間関係が変わってからはますます君とは疎遠になっていたのだった。小学校の時から人気者だった君は持ち前の優秀さと如才なさで新しいクラスでも瞬く間に皆の人気者になったが、同時に少し変わった人としても認識されていた。時に先生を質問攻めにして授業のペースを狂わせ、勉強が苦手な生徒から反感を買ったりもしたが、今思えばあれは君の知識へのまっすぐな貪欲さ故だったのだろう。反対に、所謂「テストで点数の取れる優秀な生徒」からは「点数以上の何かがある」として尊敬を集めていた。僕はと言えば片手で数えられるほどの交友関係しか持たなかったから、クラスの中心人物的な君と喋る機会は当然少なかったし、別段それをどうとも思わなかった――それを狂おしいほど勿体なく思う時が来るとはつゆ知らず。
ある時君との関係の転機となる出来事が訪れた。それは国語の授業、題材は「走れメロス」だった。敢えて説明するならば、メロスという男が暴虐な王を誅殺しようとするもあっけなく捕まり、身代わりに親友セリヌンティウスを置いて故郷の村に帰り妹の結婚式を見届けて再び死に赴く、その過程を描いた太宰治の有名な短編である。多くの人が名作と評する国民的な短編小説だが、癖の強いことで有名な国語教師は冷酷に言い放った。「この本は構成がまずいな。一見、人の心の弱さ強さも織り込まれた勧善懲悪の感動的な物語のようだが、拭い切れない違和感があるな。君らのなかでそう思う人はおらんか」ややあって一人の生徒がこう答えた、「メロスが友人を差し出す場面に違和感があります。王を殺そうとしていながら命乞いをするのは見苦しいと思います」教師はふむふむと頷くと「なるほど、答えてくれてありがとう。しかし僕が言わんとしているのはそこではないな。いや、確かにそこにも違和感はあるのだが、読めばわかるようにメロスは単純な男で、頭に血が上ったら見境なく行動するとあるのだから、そこは整合性が取れていると思わんか?逆に、妹の結婚式を済ませてから確実に王を殺害する計画を立てるような男でないことは明らかにわかるだろう」ばくされた生徒は悔しがりながらも納得した様子だった。
 暫くの沈黙が流れた。「……誰もなさそうだな」そう教師が諦めかけたのと、君が何かを言ったのは殆ど同時だった。「王の態度に違和感があります」君は朗々たる声でそう言い放った。「理由は?」慎重に値踏みするように教師が尋ねた。「冒頭で王の孤独が強調されていたにも関わらず、メロスが戻ってきたことで簡単に覆り仲間にして欲しいなどと甘える様子は都合が良すぎます。メロスが戻ってきた時点で王は自らの業のため死ぬ、そうでなければこの作品に本当のカタルシスがあるでしょうか?妹婿、自らの子供、妹、妹の子供、妻、臣下を殺しておきながら都合が良すぎだと思います」
過激とも思える意見を淀みなく言い放った君に、殆どの人は呆気にとられていたのではないだろうか。僕はといえば、ただ君の毅然とした態度に理由のわからない戦慄と陶酔を覚えた――語弊を恐れずに言えば、僕は君に、見惚れていた。ハッピーエンドを敢然と否定し、王の死を以て完璧とすべしだと説く君は、僕がそれまでの人生で誰に対しても見たことのない凄みを帯びていた。僕は君との没交渉がもったいない事だったと気付いた。
須臾しゅゆの無音を破り、教師は「喋ってもいいかい」と前置きしてこう言った。「素晴らしい意見をありがとう。実は僕もそのあたりを言おうとしていてね、いやあ嬉しいな。冷静に考えて親族を虐殺した人間が特に代償もなく救われてハッピーエンド、なんてのはおかしな話だよね。ただ、この主張にも一応の反論は考えられるんだけど……時間がないからまた次週にしようかな。それまでに考えといて」気付けば時計の長針は授業終了の時刻に触れようとしていた。微妙な空気感に包まれた教室を置いて、彼はチャイムと同時に教室を出て行った。
珍しくも君が話しかけてきたのはその後の昼休み、給食を食べ終わった直後だった。「あれ、何だと思う?結構鋭いところ突いたと思ったから、反論が考えられるって言われてわかんなくなってるんだけど」彼女はお手上げといった様子でため息交じりに零した。(久々に僕に向けられた声が、当然ながら小学校の時とは変わっているのを感じ妙な気持ちになったのを覚えている)僕はただ君に見惚れていただけで、肝心の内容について深く考えてはいなかったので直ぐに答えは出なかった。焦れる君を前に、一つの答えが閃く。「……王が主人公になる」僕は今降りてきた直観を言語化しながらそう答えた。「これはメロスの正義対人を信じないという王の悪、という構図になっているけど、その結果として王が自死を選ぶならそれは王の孤独対人を信じたい心という構図になる」直ぐに君は応じる、「たしかに自死ならそうかもしれないけど、圧政に敷かれていた人民の不満が爆発した結果の暴動だとか復讐だとか、そういったことで王が死ぬのはどうなの」「あくまでこの話の主題は人を信じる心という正義だからね。そして多分、作者はそれをこそ書きたかったのではないかな。でも勿論、リアリティを追求するなら、そして暗い話になってもいいならその方向に話が進んでも面白いと思う」さらなる反論をしなかった君は、しかしなお何か言いたげな風でもあった。「なにかある?」そう尋ねると君は「やっぱり、ずるい」そう言ってくるりときびすを返すと教室を出て行った。
昔馴染みと久しぶりにまともに話した嬉しさ――見惚れた人に話しかけられた嬉しさに浸るには、君の最後の態度は明らかに冷たかった。結局その日はそれ以降会話がなく、翌日に軽く挨拶した時には既にいつも通りの君だった。嫌われたようでもなかったので安心したが、ずるいという糾弾は思いのほか心に残り続けていた。それと同時に、凛とした姿に見惚れた僕は君の言動や行動を注視するようになった。分かったことは、君は人の心というものに強く興味を持っているということだった。これは僕にとっては共感が難しいことであった――これまでの僕は、他人がどう感じるかより自分がどう感じるか、他人が何を大事にするかより自分が何を大事にするかの方が重要だと信じて疑わなかったからだ。しかし、この事件以降、君がどう感じるかについては少しだけ気になるようになっていた。
あの時のずるいという言葉の意図、それが今になって漸く理解できたような気がする。君は誰もが認める読書家だった。それも、ただ娯楽のためというよりは横溢おういつして止まない知的好奇心のためにとことん没頭するような読書をしていた。それに引き換え、前述したように僕は本を余り読まない癖に一端に本についての意見を君に言ったから、そしてそれが君にとって納得のいくものであったから、それが君にとっては「ずるい」ことだったのかも知れない。(或は僕の論点をずらしたような回答に対してかもしれないが、それのみであれば淡々と指摘すればいいだけであるから、やはり悔しさが有ったのだと思う)その言葉を持て余した当時の僕は見て見ぬ振りをすることにしたが、君があの時ねていたのだと考えると、違和感として残っていた記憶も途端に微笑ましく思えた。
この件を契機として、再び君とよく喋る関係になれたことは僕にとって最高の僥倖ぎょうこうだったことを付け加えておく。

君はもういない。それでも、今また新たな意味を持って鮮やかに僕の心の中にいる――君は僕に於いてこんなにも輝かしく生きていることに漸く気付いた。「しのびながらより良く生きていく」君のお父さんが言っていた言葉が脳裏を過る。それはきっと、ただ恋しく思いながら前を向くのではなく、故人が世界に新たな意味を与えるように考えることだ――今やっと腑に落ちた。「故人の生死は生きている人間次第、か」独り言ちた僕は、最早独りでは無かった。二人分の人生を生きようという気概のようなものが、胸の奥深くのところから沸々と湧き上がるのを感じないではいられなかった。

 それから約三か月が経った今日は君の月命日で、僕は毎月の例に漏れず君の家を訪れていた。僕が仏壇に手を合わせていると、一緒にと言って君のご両親も手を合わせ始めた。それが終わると、いつものように彼女の母親が淹れてくれたお茶をいただきながら近況を話すなどして談笑を楽しんだ。殊に学校の話はよく盛り上がった。ふと彼女の父親の僕に向ける目線がいつもと違うことに気が付いた。「どうかしましたか」と尋ねると、彼はいや別に、と言った後、最近はもう気分が落ち込むことはないのか、と却ってこちらに尋ねた。僕が首肯するのを確認すると、何か覚悟を決めたかのようだった。「こっちへ来てご覧」彼はそう言うと居間を出て二階へと足を向けた。
誘われた先は彼女の使っていた部屋だった。そこは君らしいと言えば君らしく雑然としていて、床には本棚に入りきらなかったのであろう本が平積みになっていたり、机上には万年筆や筆ペンなどを含めた文具が無造作に置いてあったりするのが見えた。「部屋のものは殆ど動かしていないんだ」彼は一息置いて続ける、「……これ以外はね」その机の上から手に取ったのは、達筆な行書で「遺書」と書かれた分厚い封筒だった。その中からかなりの量の便箋が取り出されたが、彼はそれを机の上に置いて、更に別の一回り小さい封筒を取り出した。「娘はこれを君に、と言い残してあった」驚いて彼を見ると、「今の君なら大丈夫だろうから」と付け足された。渡された封筒にはこれもまた達筆な行書で僕の名前が記されていて、糊で厳重に封がされていた。中にはこれも便箋が入っているようだったが、たちどころに開けて仕舞うのは流石に憚られたので、お礼をだけ言った。「……私は君が、少し羨ましい」そう呟いた彼女の父親は、微笑みを浮かべながらも寂しそうな顔をしていた。
家へと向かう足取りが覚束おぼつかなかった。勿論内容の事ばかり気になって仕方が無かったからだ。君がこんなものを僕に遺していたとは、そしてそれが今になって僕に渡されることになるとは、妄想こそすれ実現するとは思いもしなかった。あのとき、君の人生を背負って生きていくことを決意したあの冬の日から、僕はずっと君の意味を考えることに終始していた。なるべく強烈な君を脳に刻もうと必死だった。しかし今、全く新たな君に出会える機会を得たことが嬉しいと同時に、ある一つのおそれを抱かないわけにいかなかった。「もし僕の中の君と、君の書いた手紙の君が乖離していたら。それは重大な、致命的な冒涜ではないか」この考えに到った時、僕は慄然とした。思えば今まで、僕は君の不在をいいことに、ありもしない君を作り上げていなかったか。それは本当に、君だったか。背筋を撫でる風が冷たい。鬱鬱とした気持ちで帰宅し、自室に入る。――巨大な恐怖に出会ったとき、人は余りに無力だ。やるせなくなった僕は徐に布団を敷き、靴下を脱いでその中にもぐりこんだ。何度か姿勢を変えるも、真っ昼間から急に眠りに就けるわけでもなく、寝苦しさに敗北してまもなく布団から出る。何をしていても落ち着かない。君を亡くした直後のあの苦しみ――とめどなく襲い来る、心臓を鷲掴みにされたような不快感に転げ回ったあの煩悶の再来が予感されて、本能的な恐怖を覚える。生々しい君の痕跡に出会ったとき、喜びよりも狼狽や危惧の勝ってしまう自分の情けなさ。
「……いっそ、一気に読んでやろうか」ややあって殆ど無理やり腹を括った僕は、深呼吸をして座椅子に座ると、君の手紙の封を開けた。

『親愛なる人へ

貴方と出会ったのは忘れもしない小学校三年生の時、初めて同じクラスになった時でした。その時は貴方とここまでの関係になるとは毫(ごう)も思っていませんでしたが、運命とは数奇なものですね。ではその時の私にとって貴方がどう見えていたかというと、申し訳ないけれど浅薄な人間だと思っていました。誤解を恐れずに言うのであれば、私は知性の為に尊敬すべき人間を父以外に知らず、父を除く全ての人を驕慢にも軽侮していた節があるので、貴方だから特に軽んじていたというよりは、あなたとの出会いが他の人との出会いと比較して特別な意味を持っていなかったと言った方が正確かもしれません。(父には私の驕りが見抜かれており事あるごとに叱られて居ましたが)然し間もなくして、貴方には他の人には無い魅力があることに気が付きました。「人間は何の為に生きていると思う?」そう貴方に尋ねたことを憶えているでしょうか。「なんのためでもないよ」という貴方の回答は、私の尊敬する父の回答と全く同じでした。私自身は生には何か目的があるはずだと思って日々考えていましたから、思いもよらない答えを得た私は悔しさと興奮の混ざった複雑な感情に駆られました。それからです、私があなたにしつこく話しかける様になったのは。哲学、宗教、人生観、当時はそんな言葉を知りませんでしたが、そういった概念で括られる事柄について私は思い付くがままに貴方に尋ねたような気がします。勿論悉く期待が叶えられたわけではないものの、大概の事に就いて貴方は示唆に富む回答を私に寄越してくれました。貴方が天才であるという直感めいた確信は次第に私の心象の中で肥大し、――誤解を恐れずに言うならば恰も恋心のように募っていきました。ただそれは初恋と呼ぶには余りにも理屈っぽさが勝っており、幸か不幸か、耽溺するにはその水は余りに重かったのです。こんな考えに憑かれたのが小学五年の頃でした。
こんなことを書くと私が余りに早熟の才を持って居たように感じられて嫉妬に狂いそうになるかもしれませんが、ご安心下さい、これを記している今だからこそこうして読むに堪える文章に出来ているのです。当時の私の言葉で無理に綴るとすれば「周りの人はみんな何も考えていないように見えて退屈だ。面白い人はお父さんしかいない。でも最近あの人は意外と面白いのかもしれないと思うようになってきた。どこかお父さんに似ているような気がする」といった程度でしょう。
話が脱線してしまいました。(あなたにこの文章を遺すことを決めてから、退屈しない限界まで長く書こうとしてしまうのはきっと、貴方の心に私が少しでも多く残りたいと思うからでしょう。だけど冗長になって情報の濃度が下がってしまうのも厭だから精々三千字程度にとどめておこうと思います。これはまた、私の人生はそれ以上の言葉で語るほどの物語をまだ育んでいないままだからというケンキョさもあります)そうそう、私があなたに対して抱いていた感情の話でしたね。分類不可能だったそれは時の経過を経て、そしてあなたとのコミュニケーションを重ねるにつれて、万華鏡さながら美しさを保ったまま変化したのでした。こんな挿話も思い出されます――中学三年の頃、私は貴方に肉体と精神の優劣を問うたことがありました。私は当時から、そしてこの文章を書いている今もずっと、精神は肉体に主たるものであると考えているのですが、当時の貴方はまたもや予想外の答えを返しました。「どちらが優れているというようなものではないと思うけれど、敢えて自分の感覚に照らして答えるなら、精神は肉体ありきのものだと思う」そう貴方は言いました。「死んだら肉体は残らないけど精神は残るじゃん」この私の反駁は貴方にとっては少し的外れだったようです。「生きているうちの事の方が大事だ、これは僕にとって自明だからその反論は僕にとっては無意味だ」そう貴方は答え、言葉の継げない悔しさにわななく私に背を向けました。いえ、実際はそんなに冷酷ではなかったでしょうけれど。当時は貴方の言うことに微塵も共感できなかった私ですが、それから少し時間が経って一つの仮説にたどり着きました。その仮説は私にとってかなり衝撃的なもので、以後の貴方に対する私の気持ちを揺るがすものでした。『貴方はとてつもない個人主義者で、他人に余り興味が無い』この考えに、授業中にも関わらず私はううむと呻吟した記憶があります。
個人主義。その視点から考えればあなたの意見が少し理解できたのは、肉体は精神よりも個人に属する部分が多いからです。換言すると、精神というものが自己と他者との関わり方に於いて縁どられる動的平衡のようなものであるのに対して、肉体というものは他者より寧ろ自身と向き合うことで形作られるものであるからです。しかし私はこの解釈に到った時、理解の喜びを上回る絶望的な悔しさを覚えたのでした。
折しも私の「肉体」に強大な病魔が巣食いつつあったことは何という皮肉でしょうか。高校に入学して間もない内に感じ始めた些細な違和感はやがて明らかな不調へと変わり、あれよあれよと言う間に私は紛れもない病人へと変貌を遂げました。悪性腫瘍、気の毒そうに医師はそう告げました。あっけないほど簡単にこれまでの生活が音を立てて崩壊するのを感じました。折角貴方がお見舞いに来てくれたときも、正直に言うと不貞腐れていたことが多かったと自覚しています。ごめんなさい。だけど、その時の私が貴方をどれだけ羨ましく思ったか貴方は分からないでしょう。そして貴方がくれたお見舞いの品をどれだけ愛しく思ったのかも分からないでしょう。――さんざん勿体ぶりましたが今ここで告白します、私は貴方に恋をしていました。同時に、本当にありふれた話で申し訳ないくらいですが、私は自分の気持ちに気付くのが遅すぎました。持って一年と少し、そう宣告された時には既に半ば死を覚悟していた頃でしたが、それにしてもはっきりとそう告げられるのは堪らないものでした。
皮肉なことに、私を一番冷静にさせたのは悲しみを必死で押し殺す両親の姿の痛々しさでした。私の顔を見るたび涙でいっぱいになる両親の顔を見て、私はこのまま悲嘆に打ちひしがれてはいられないと思うようになりました。自分の為のみならず、私は最期の一年を最高のものにしたいと思ったのです。そうして、貴方に思いを伝えようか何度迷ったか知れません。しかし、優しい貴方のことだから、もしそうすれば貴方は自分を捻じ曲げても私に思いを返そうとしてくれるかもしれません。当然私はそんなことを望みませんでした。こんな仮定を書く不遜をお許し下さい、もし貴方の方で私を恋しく思って下さっていたのであれば、貴方は私にありのままの思いを伝えるべきだったのです。ですが、これを読んでいるということはそうではなかったという事でしょう。(もしそうであったならこの手紙は捨てる積りですから)でも、これで良かったのです。言葉にしなくても貴方は両親の次に足繁く私のもとに来てくれたので。そうして他愛無い話をして、時には傍から見たら喧嘩かと思われそうなくらい熱い議論も交わして、笑いあって。ありのままの貴方に触れられる時間がどれだけ幸福だったか。貴方のおかげで私の人生の最期は、偽りの恋愛なんかより余程うつくしいものとなりました。貴方は感謝される筋合いはないなどと言い張りそうなものですが、一方的に謂わせてください。本当にありがとう。」

初めに覚悟を決めておいてよかった、と思う。読み進めるにつれて、二人で過ごした時間、交わした言葉の記憶が僕の胸をこれでもかと刺した。だけど、君の言葉が色褪せずそのまま残っていることが何より嬉しかったから、こんな痛みもこれ以上ない位の幸せだった。昨日のことのように克明に蘇る記憶。様々な議論をした。下らない冗談を言った。日々の愚痴を分け合った。好きなものを語り合った。時には口喧嘩もした。――病に苦しむ君を見た。苦しみながらも笑う君を見た。僕は悲しいやら楽しいやら分からなかった。唯だいとしかった。いつしか、微笑みを浮かべて君は逝った。
僕の中にいる君は、ところどころ誇張されている部分はあるにせよ、手紙の君と大きな径庭はない。先刻の憂いは杞憂だったのだ。逆に、僕の個人主義は見透かされていた。だけど、それも君と過ごす時間の中で変わっていったことは、言わずとも君に伝わっていたのだろう――もったいなくも君が僕に懐いてくれた好意がそれを物語っている、と思う。このあたりのことを僕の拙い言葉で言いつくそうとするのはやめよう。今はただ君の言葉を抱きしめていたい。
気の済むまで涙を流した後、ふと封筒を見ると、更に小さな封筒が中に入っていることに気が付いた。破れないよう取り出すと、必ず後から読んで下さいと小さく書かれていた。君はこんなにも多くを僕に遺してくれるのか。逸る心を落ち着かせ、中の小さな便箋を取り出した。

「追伸

最期に一つ、私があなたに懐いていた恋情、愛情は紛れもないものでしたが、それと同時に払拭しがたい劣等感のようなものもまた存在を激しく主張していました。聡明な貴方に、一つだけ大きな傷を遺したい。その傷痕を一生背負って生きて欲しい。貴方への好意が募るにつれて無視できないほどに大きくなったそれを、無責任にも私は貴方にぶつけようと思いこの手紙を書きました。何の事か分かるでしょうか。いえ、貴方ならわかると信じているからこそこのように書きました。恨めるだけ恨んでください。そして生きてください。つまらぬことに拘らず、歩み続けてください。貴方の幸福を願っています。それでは、お元気で。』

初めは意味が分からなかった。貴方ならわかるでしょうなんて買いかぶりが過ぎると思った。僕を試す時のいつもの君の悪戯っぽい笑顔がちらつく。肉体を失ってなお挑発的な君は、やはり常人にはない強かさのようなものがあると思った。読み返し、違和感を探す。何度も読み返すうち、少し引っかかる表現を見付けた。次の瞬間、してやられた、と思わず呻き声が漏れた――こんな仮定を書く不遜を許せとは、僕の気持ちに気付いた上で言っていたのか。殺風景な病室に咲く君の快活な笑顔が、急に堪らなく胸を締める。同時に僕は胸を締めつけるのが悲しみだけではないことを知った。それは随分幸せな痛みだった。
僕は手紙をそっと元通りに折りたたむと、皺のつかないよう慎重に便箋に仕舞った。最後の最後にこんな復讐を仕掛けてくるとは、いかにも君らしいと言えば君らしい。だけど言葉が全てではないことを知った僕はもう分かっている――傷つけようと思ったなんていうのは嘘だ。僕に残されたのは傷、なんかじゃない。
僕はそっと瞼の裏に、一生消えない貴女の満面のしたり顔を浮かべた。
                               (了)

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