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33.更 生

最近、金持ちをボコボコにして金を奪うという事件…今から100年ぐらい前の大恐慌の時代に世界中で起きていた強盗事件のようなことが日本で多発しており、指示していたのが就職氷河期世代で実行犯の多くは若者ということで、今後も社会が生きやすくなるまではマイナーチェンジしたような模倣犯が現れそうな気がします。

1967年のアーサー・ペン監督の映画『俺たちに明日はない』でも描かれていますが、結局は不景気によって自分に合った仕事も得られず、その結果、貧困になって生きていく手段として、そういう犯罪しか方法がなくなってしまった…という人もたくさんいるのではないかと想像してしまいます。
 
自分がしたい仕事ができたり、仕事をすればちゃんと生活を余裕持ってできるぐらいの報酬を得られるようになったり、ホッとできる場所があったり…、その人たちにとって安心できる社会になれば、このような犯罪をする必要もなくなるのではないでしょうか。

とは言っても、就職難の時代ではありませんから…。
働く人が足りないと言って問題になっている時代です。

日本の問題点は、卒業予定の学生(新卒者)を一括して採用する新卒一括採用と呼ばれる雇用が一般的になっていることで、新卒の時に納得いく安定した職を得られなかった場合には、将来的にも安定的な職に就くことは難しく、生涯に渡って影響を受けると言われています。
私なんかも2度目の転職の時に、新卒の若い人よりもかなり安い給料で働いていたことがあります。
 
世代間の格差も浮き彫りになりました。

世代間格差とは、一生の間に政府や自治体から受ける年金や社会福祉をはじめとするサービス(受益)と税や借金などによる負担の差が世代によって異なる事から生じる格差のことです。
 
有権者に占める高齢者(65歳以上)の割合は増え続けています。
 
これに加えて若い世代の投票率が低いことから、政治家は高齢者に有利な政策を実施します。

それは、政治家の中でも主力のほとんどが高齢者なので仕方がないことです。
 
それが、世代間格差に拍車をかけていると言われています。
 
日本の国民年金は、給付に必要な費用を現役世代が負担する賦課方式をとっています。

この方法は、少子高齢化によって受給者の比率が高くなった場合に、現役世代の負担が重くなり、将来的にも負担額に応じた給付を得られなくなる…という問題があります。
 
厚生年金の場合、1940年生まれ世代と2010年生まれ世代との間で受益と負担の差額に約6000万円の格差が生じると言われています。
 
先述した通り、日本では新卒一括採用と呼ばれる雇用が一般的で、この新卒の時に納得いく安定した職を得られなかった場合、将来的にも安定的な職に就くことは難しく、生涯に渡って影響を受ける可能性があります。
 
不況などで企業が採用を絞ると、その年の新卒者は本人に起因しない理由によって大きな不利益を被ることになります。
 
日本では、正社員の雇用はしっかりと保護されていますが、これは非正規労働者には適用されていません。
 
同じ仕事をしていても、正社員と非正社員では給料に大きな差が生じます。
 
あと、この件で問題なのが、人手が足りないと言われている福祉業界では10年以上前から正社員で雇うところが多かったのですが、給与的には非正規雇用の平均賃金よりも低い状況なので、これもまた正社員だから…非正社員だからという単純な話でもありません。
 
そして、終身雇用も状況を悪くしています。
 
OECDは、日本の問題点は高齢化の影響で50~65歳の労働者層の割合が突出していることで、賃金の歪みを大きくさせていると指摘しています。
 
50~65歳の方やそれ以上の方たちの多くは、20~40代より遥かに多くの収入を得ていますし、老後も、今の現役世代の将来よりも安泰の方たちが多い状況です。
 
だから、冒頭で記述した犯罪者たちに狙われやすくなります。
 
お金のない人を襲っても仕方がないので、お金をたくさん持っている人をリストアップして凶行に及ぶわけです。

それと同時に富裕層(勝ち組・強者)への反抗みたいな1面もあるのでしょうか…。
 
2040年を過ぎれば高齢者の多くが貧困層になり、パワーバランスは変わるので犯罪の質も変わると考えられます。
 
犯罪=失敗です。

生きる上で、自分の置かれた環境と折り合いをつける為に選択した方法が失敗だったということです。
 
犯罪=成功になることは、100%ということはないのかもしれませんが、ほぼ全くありません。

やった人が逃げ切ったとしても、失敗ということになると思います。
 
犯罪は法律に反することになってしまうので、法律がおかしかったとしても、それを破れば犯罪です。

だから、その法律に耐えられないのなら、その法律を変えてから行動することが“成功”になります。
 
人は誰だって失敗をします。
 
何の変化も起きない失敗もありますし、自分がちょっと恥ずかしい思いをするだけで済む失敗もあります。

笑って誤魔化せる失敗があれば、泣けば済まされる失敗もあり、謝れば済む失敗もあります。

大金を積んで済まされる失敗もありますし、一定期間の刑務所暮らしが必要な失敗まであります。

もちろん、怪我をする失敗や死に到る失敗もあります。
 
人は誰でも大なり小なり、失敗します。
 
最善だと思ってやったことが失敗だったということもあるでしょうし、生きる為には“もうこれしかない”という状況に立たされた時、他の選択肢が全て無くなれば、間違いだと理解していても、わざと失敗することもあるかもしれません。
 
再犯してしまった人の中には、社会の中で生きるより刑務所の中での方が安全で安心だからという理由で罪を犯してしまった人もいます。
 
そうでなければ、もう1つ“自殺”という方法もあります。
 
日本の若者(15~39歳)の死因の1位は自殺です。
 
おそらく、氷河期世代が若者でなくなったので、そのバランスが今後は変わってくるかもしれません。
 
犯罪をするか死ぬか…という選択を迫られた人もいると思います。

犯罪は“生きる為の失敗”であることが多いと思います。

ゲーム感覚、遊び感覚でやってしまう人もいるのかもしれません。
 
生き物は死んでも生き返るものだと本気で思っている人も、今の時代はいてもおかしくありません。
 
ただ、今回の ふくしのおべんきょう では“生きる為の失敗”として犯罪をしてしまった人を中心に考えてみます。

今の日本は、もともと小さな島国という閉鎖的な民族なのに、SNSの発展とコロナ禍による更なる閉ざされた社会の変化によって、寛容度がどんどん低下しています。
 
下がり尽くして、まさに不寛容社会です。
 
失敗などは許されません。

大勢の人が匿名で袋叩きにする為に襲いかかってきます。
 
それがどんなに過去のものであったとしても発掘されてしまったら人生終わりです。

不正だらけの東京オリンピックにおいて、開催直前に排除された音楽家のコーネリアスさんとかもそうでしたし、今年話題になった札幌出身のお笑い芸人さんも同じような状況でした。
 
そんな空気が蔓延していて、多くの人が“炎上”に怯えています。

有名無名は関係ありません。

“炎上”したことで有名人になってしまう人も多くいるからです。
 
私の世代の学校生活の中で、既にそういう空気は蔓延し始めていました。

少し、他と違うことを考えて言ってしまったり、行動してしまうと袋叩きです。
 
現代では、SNSによって見知らぬ人までもが襲いかかってきます。
 
今日もSNSでは、たった1度か2度か3度か…わかりませんが、失敗で誰かが大勢の人たちから叩かれています。

今の日本は、失敗が許されない社会です。
 
本来は…かつての話ですが、失敗することや間違えることは、若者の特権でした。
 
もちろん程度にもよりますが、少し前であれば失敗は“若気の至り”なんて笑われて許されるものでした。

今は子どもまでもが“1度の失敗ですべてを失う”ことをわかっているのでしょうか…、それを恐れているように見えます。
 
私は、最近はちょこちょこと発達障害のあるお子さんにお勉強を教える仕事をしていましたが、難しい問題にぶち当たると間違えたくないと言って“考える”ことが全くできなくなってしまう人がたくさんいます。
 
確かに、誰でも間違えたことに対して恥ずかしさみたいな感情は湧くものだと思いますが、そういうお子さんは頭が真っ白になるというか…パニックです。

他人の失敗とかに対しては、散々バカにするのですが…子どもってそんなもんですかね…。
 
私が子どもの頃から学校教育はそうでしたが、1つの答えを最短で(1つの方法で)求める方法を教えるというスタイルなので、それを習得するのに個人個人で早い遅いがあり“理解できている人がいるのに自分はできない”とか…“これをわかっていないことを知られたくない”など…と考え過ぎてしまいます。
 
そんな子どもにとっての、困難に立ち向かうことで間違ってしまった時に、みんなからバカにされてしまうような…、そういう社会に以前よりも強く今はなっているのかもしれません。
 
その結果、できることだけに手を付けて、チャレンジ精神は持てなくなってしまいます。
 
“1度の失敗で全てを失う”社会だからです。
 
今は親も先生も、子どもが失敗する前にその芽を摘みます。

その結果、そのお子さんが独立した時に初めて犯してしまった失敗の内容が大き過ぎてしまう…ということもあります。
 
私の場合は、人生を振り返ると、生き恥の如く、失敗の積み重ねの中に僅かな数だけの小さな成功に喜びを感じるようなちっぽけな“The ロスジェネ”世代です。
反対に失敗をしなくなったら…、いや、失敗を失敗と感じなくなったら、そっちの方が心配です。
未だに、世間一般の考える“順風満帆”にも常に憧れを持っているのですが…。
私のことは置いておきましょう。

自立することは、必ずしも、正しい人になることではないと思います。

人間は強さを持っている反面、必ず弱さを持っています。

だから、誰かと…何かと…社会と繋がるわけです。
 
人間には幸福になる権利と同時に、実は、失敗する権利があります。
 
その失敗する権利を優秀な支援者や指導者は奪います。
 
例えば、上記の親や先生の件もそうですし、介護業界だと、転倒事故が起きると全て介護側の責任にして、その場にいなかった転倒後に発見した人が、なぜか転んでいた本人や家族に謝罪します。
その後、そうならない為に、先回りして失敗させないように支援を考えます。
 
そこには、本人の“存在”や“責任”、“価値”は見当たりません。
 
要するに、“尊厳”を踏みにじっているように感じます。
 
認知症どうこうは関係ないことだと思います。
 
一番幸福なことは、ある程度は安心して失敗できることなのかなと思います。
 
生きているということは、失敗もする…ということだと思います。
 
失敗したら次は同じ失敗をしないように考えて行動を改めます。

失敗しても立ち直れる社会が求められます。
 
もちろん、犯罪の場合には加害者だけではなく被害者もいるわけで、そう単純に事が進む問題ではありません。
 
犯罪被害には、生命、身体、財産などに対する直接の被害(一次被害)だけではなく、その一次被害に起因する様々な被害(二次被害)を伴うことがあります。
 
周囲の心ない言動、誹謗中傷などによって被る精神的な苦痛や心身の不調などの被害を“二次被害”と言います。

二次被害の原因は、捜査や司法、医療機関などの態度や、マスコミの取材、報道、周囲の噂や野次馬たちに好奇の目で見られる…などの様々なことが挙げられます。
 
それらに共通していることは被害者の“人間としての尊厳”を傷つけるような接し方という点です。
 
犯罪被害というと、身近なことではなく他人ごととして考えてしまいがちですが、残念なことに誰もが、犯罪被害者やその遺族になり兼ねない事も現実ですし、加害者になってしまうこともあり得ます。
 
犯罪被害者などの置かれた状況や心理状態をよく理解して、そのような方々が地域の中で再び平穏な生活を取り戻せるように寄り添う気持ちを持つことが大切になります。
 
二次被害の例としては、心身への影響 (心身の不調、精神的ショック) や経済的な負担 (収入や住居を失う、医療費の負担) 、精神的な苦痛 (周囲の心ない言動、誹謗中傷、哀れみの眼差し) 、捜査や裁判に伴う負担、再被害(加害者からの更なる危害への不安や恐怖)があります。
 
被害者の人生もあれば、加害者の人生もあります。
 
更生保護は、犯罪や非行をした人たちに対して、社会の中で立ち直りに向けた指導や支援を行うことにより、その再犯を防ぎ、社会復帰と自立を助ける活動です。
 
更生保護法第1条では、これらのことにより、“社会を保護し、個人及び公共の福祉を増進することを目的とする”とされています。
 
犯罪や非行をした人の中には、高齢や障害…その他諸々の理由によって、自分の力だけで社会復帰して自立した生活を送っていくことが困難な人もいます。
 
犯罪や非行をしたことの責任を自覚し、立ち直りに向けて自助努力をすることはもちろん大切です。
 
その一方で、自分の力だけで社会復帰をすることが難しい場合は、その人のニーズに合った福祉や医療的支援や就労支援を受けながら、支援のもとで自立した生活を営んでいくことも大切なことです。
 
そのことが、再犯を防止し、安全で安心な地域社会を築くことに繋がります。

高齢又は障害により自立が困難な刑務所出所者などに対し、出所後、必要な福祉サービスなどに繫ぎ、地域生活への定着を図る地域生活定着促進事業があります。
 
行き場のない刑務所出所者などを受け入れる更生保護施設にソーシャルワーカーが配置され、福祉的支援が必要な被保護者に対して専門的な知識を活かして、更生保護施設退所後の自立に向けた支援や行政サービスへの繫ぎなどを行う取組を行っています。
 
更に、これら刑事司法の出口段階での支援とは別に、起訴猶予者や執行猶予者などを対象とした刑事司法の入口段階における支援……所謂“入口支援”もあります。
 
更生保護を担う国の機関である保護観察所では、出口支援と入口支援等を行う“特別支援ユニット”を設置し、地域の福祉関係機関などと連携しながら指導や支援を実施するなど、更生保護と福祉や医療が連携して支援する取組が増えています。
 
更生保護は、犯罪や非行をした人が様々な刑事司法手続を経て、処罰や処分を受けて社会復帰に至る…、その最後の部分となる保護観察を担っており、刑事司法の総仕上げとも言われています。
 
この総仕上げの段階で地域社会にうまく定着できるようにすることが、本人の改善更生及び再犯防止に繋がります。
 
社会復帰に当たっては、地域の中で立ち直る為の居場所を得ることが大切です。
 
孤立を背景に負のサイクルに入り込むと、再犯、再非行に繋がる場合があります。
 
立ち直りに協力する人たちの輪の中で、負のサイクルから抜け出して立ち直りの道を歩むことが、安全で安心な地域づくりに繋がります。
 
社会を構成する人としては性別関係なく、子ども、成人、中年、高齢者、何かしらの障がい者手帳を持たないと生活し辛い人、元犯罪加害者、元被害者、日本以外の国の人たちなど…多様です。
 
人はそれぞれ個性があります。
性格が違います。

なので、内心でどんなことを思っていても良いのかなと思います。
 
“誰かが苦手だ”、“嫌だ”という気持ちは誰にでもあるはずで、これは他者から否定されるべきものではありません。

それをどういう形で社会と折り合いをつけていくか…ということが、多様性にとって大事なことだと思います。
 
嫌いな人同士でも、それでも共存できる社会を作る…これがこれからは求められると思います。
 
それぞれが様々な内心を抱えていても、多くの人が今以上に権利を手に入れることができる社会を作らなければいけません。
 
それぞれが権利主張することは悪いことではありませんが、他者を侵害しないことが求められます。
 
そこには、複雑な“気持ち”の問題と、“権利”の問題があります。
 
“隣に住んでいると嫌だ”、とか“気持ちが悪い”と思う人がいたとしても、それは、ずっと以前の地域社会でも、近所付き合いの中であったことだと思います。
 
最近は、性的少数派と言われる人たちや外国人労働者が取り上げられることが多いですが、以前に犯罪をしてしまった…反省した上で地域に戻ってきて更生して立ち直ろうとしているような人たちにとっても同じ事で、ここで問題なのは、住宅でいうと賃貸が借りられない、公共のトイレや風呂はどうする…などの“権利”の問題です。
 
そうした人たちの権利が広がったとしても、多数派とされている人たちにとっては何もデメリットはないのではないか…と思います。
 
なので、そういった人たちの権利が侵害されている状況が反対におかしいというわけです。
 
社会に生きる人全員の権利が認められて共生できる社会にならないことには、地域共生社会なんて永遠に実現しません。
 
“持つ人”と“持たない人”の格差が、犯罪や戦争の要因の1つになります。
 
今の日本を見てもわかりますが、環境が人の行動を左右します。
 
SDGsでは17の目標が設定されていて“誰一人取り残さない”という原則が採用されています。

今一度、この精神に乗って改めて社会のシステムを再構築…更生していかないと、今のままか…もっと悪い状況になるかもしれません。
 
 
最後に、映画『ロード・オブ・ザ・リング』の魔法使いガンダルフさんの名言です。
 
(主人公のホビット族フロドさんの“僕が指輪をもらわなければ、こんな旅にならないで済んだのに…”という発言に対して…)
 
“辛い目に遭うと皆がそう思うが、どうにもならん。

生きる時代を決めることはできないが、どのように生きるかは自分で決められる。

自分が今、何をするべきかを考えることだ。

この世の中は善悪の力に加えて、運命の力が働く。

彼は指輪を見つけ、お前はそれを譲り受ける運命だった。

そう思えば納得できるだろ。”


写真はいつの日か…真狩村から羊蹄山を撮影したものです。
 
 

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