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なぜ日本ではライブの録画録音をしてはいけないのか、について考える

海外の公演ではみんな撮影してSNSで共有しているのに、日本はなぜダメなの、という疑問は、大好きなアーティストがいる人なら一度は感じたことがあるはず。そして、そのルールを「ここは日本だから」で納得して遵守している人がほとんどだと思う。

ぶっちゃけ、わたしは命に係わること以外、ルールなんてどうでもいいと思ってる人間だし、正義厨でもない。
積極的には探さないけれど、SNSに流れてくるお写真や動画は薄目で楽しんだりもする。けれど、「国内での録音録画、撮影禁止」については自分なりの解釈に従って、納得して遵守している。

コンサートのたびにちょこちょこ流れてくる
「日本のファンは海外のファンの動画を享受するだけで、提供ができていない」
「スマホを出さない風景を『さすが日本』と誇るのはおかしい」
「誰のための権利なの?『ここ日本だから』で考えるのをやめてはいけない」
こういった趣旨のポストを見ながら、ちょっといろいろ考えてみた。
(非難や反論ではありません。社会学的考察と回避策の仮説です。)

【1】信仰による歯止めと良心
日本で現在確固たる信仰を持っている人ってどれぐらいいるのだろうか。
罰則の無い行動規制について、「それをしない」理由が信仰上のものであれば、それは一定以上の歯止めになりうる。
けれど、信仰の無い人の場合、歯止めになりうるものは「良心」や「社会的道徳」が主な理由ということになる。
社会的道徳はともかく、良心は信仰上の理由よりも抑止力としては揺らぎやすいと思われる。
それは撮影したメディアの使い方の基準として、極めて不安定ではないか。
だからこそ、ルールは明文化されて、守るべき基準として存在しているのではないか。

【2】村の社会、恥の文化
出る杭は打たれる、という諺がある通り、とても同調圧力が強い社会(団体の社会、村の社会)だ。
ひとりだけ得をしたり、ひとりだけ目立ったり、姿形が違ったり、何か「他人と違う」ことに強い抵抗を表すことを是とする社会を近年まで有してきた。「協調性を重んじる」という文言で個人の欲望や主張は抑え込まれてきた歴史もある。
それは、画一化して暮らさないと生き残れなかった、近代までの「弱い者たちの知恵」を結集した生活スタイルの名残ではあるが、同時にその弱い者たちが、異質なものを徹底的に叩き、排除してきた生活の名残であるともいえる。しかし、その同調が逆方向に傾いたとき、少数派は多数派になり、抑止は「みんなやってるからOK」という形で解禁に変わるのだ。

日本は「恥の文化」の国でもある。
自然信仰の関連で「おてんとうさまに恥じない」とういう基準がある反面、「闇夜にまぎれて行う」という言葉もある。
つまり自分の良心が不安定になった場合「他人が見ているからやめる、誰も見ていなければセーフ」という基準は現在にも確かに存在すると思われる。
物事に対する判断が「GO」と「STOP」であった場合、より安全なのは「STOP」だとわかっていても、誰も見ていない、もしくは、みんながやっていれば、判断基準はとても簡単に「GO」に変わる。
だからこそ、ルールは明文化されて、守るべき基準として存在しているのではないか。

※この考え方が突出した才能や文化を殺す代償として、日本の治安維持に役立っているとも言えるんだけど。

【3】誰の権利を守ってるのか
これは言うまでもなく、アーティストと、アーティストを管理する会社やエージェントの収入と知的財産権のためでしょう。
時代はどんどん変わってゆくので「SNSでライブレポートや動画を配布してもらうの大歓迎」というのが世界のメインストリームであったとしても、
一定の線引きをしないと著しくアーティスト側の権利、ひいては収入に影響することだってあり得る。
バンタンだってもとは有志による動画や画像拡散が知名度を上げる一因だったわけだし、マスターさんたちのお写真はとても素敵だ。
正直彼らクラスのアーティストならば、Youtubeで違法にライブ全編配信されても、ライブビューイング、オンライン配信、メディアやグッズの販売等でじゅうぶん利益は出るだろう。
しかし、それでは収益を得られない規模のアーティストは国内にとても多く存在する。
なぜならば、現在の日本のエンターテインメント業界でアーティストに支払われるギャランティーはとても低い。
万引きが本屋を倒産させるように、じわじわと大好きなアーティストの利益確保に響いてくることだって、あり得ないとは言えない。
嘘だと思うなら、株式を公開しているエンターテインメント関連の事務所の収支報告を見てみたらいい。
売り上げから経費を引いた純利益が何パーセントか見たら愕然とすると思う。
だからこそ、ルールは明文化されて、守るべき基準として存在しているのではないか。

※余談ですが
以前ステージに立つ仕事をしていた時、お客様にステージを勝手に撮影され、自分が望まない姿、納得していない演奏をSNSに投稿されたときは、ありがたい反面本当に嫌だった。
何をどういう風にどんなタイミングで開示していくかは、アーティスト側の大切な権利なんだよ、と今でも強く思う。

【4】美学
(さんざん過去映像を愛し、享受しておいてなんですが・・・)
私見ではあるけれど、わたしはライヴ、特に音楽という芸術は「消え物」であるから素晴らしいと思っている。
一回限りの、その場でしか味わえない高揚、興奮。
発する側と感じる側のインタープレイ。
それはお金を払って聴きに来てくれたお客様とアーティストだけの、極めて限定的で濃密な時間。
アーティスト側が企画するライヴ録音や映像録画であれば問題ないけれど、その瞬間を不正に盗み取るのは、美しくない。
ステージのあちら側と客席のこちら側であっても、お互いに愛と尊敬があるなら尚更。

【5】じゃ、やっぱりライブの録画録音はだめなのか
ルールとして「禁止」が明文化されているのであれば、日本の文化歴史民族性を鑑みたうえで、やはり遵守するべきだと思う。
なので、興行側は、公演単位で「撮影可」「撮影不可」を決めれば良いのでは?と思っている。
ルールとして「OK」なら、問題ないわけだし。
OKにしてもプレミアム感を損なわず、じゅうぶん利益を確保できると思うアーティストは許可すればよいと思うし、クローズド感を大切にする、利益を守りたいと思うアーティストは禁止にすればいい。

またはVIP席のように、追加料金を支払って撮影可能ゾーンを設定するとかね。画一的なのが問題なのであり、撮影する権利を買う、という行為で差異を明確にすれば、問題は解決されるのでは。

あとは「村の社会」の特性を生かして、禁止であっても事前に申し合わせて全員(に近い人々)がスマホで撮影すれば、多数派が逆転するから。
全員が退場させられたらその公演は成り立たなくなるので、会場側も摘発に二の足を踏むのでは。
見せしめで前科が付く可能性はあるけれど、一回(と言わず何回か)やってみると何かが変わるかもしれない。

まあ、そんなわけで。
自分のプライヴェートな機器に大好きな人の画像映像を残したい、みんなに見せたい気持ちはとても理解できるけどね。
近い将来、撮影が解禁される日もくるかもね。

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