「尊敬する人は誰ですか?」と聞かれて「親」と答えられる人が羨ましい

https://youtu.be/04S__0Xr2T4?si=N451sAebxVwxtP2C


よくテレビのインタビューなどで、成人式に出た若者が「お父さん・お母さんに感謝してます」とか「親に初任給で焼肉連れて行ってあげました。」とかいう映像を見る。

我が家の親子関係から考えると、絶対にありえないだろうなと思ってしまう。兄はどうか知らないが、大人になるに連れて、我が家が異常だなと気がつくにつれて、親は人生における尊敬という対象からは外れていった。

千原ジュニアさんとケンコバさんがフリートークする番組「にけつッ!!」において、「今までの父親との会話時間をギュッと圧縮したらどれくらい?」というトークに「おれ3日くらいちゃうかなー」とジュニアさんが言っていて、あぁやっぱそうだよな。と安心した。

私は父親とマトモな会話をした記憶がほとんどない。だからこそ、数少ない記憶の中で何を話したか鮮明に覚えている気もする。

私の父親は脳卒中で早死にしたが、自分としては、そうなるだろうな。と思っていた。血圧が高いのに、昼夜逆転した仕事だったり、正義感が溢れすぎている性格だったので、サラリーマンのような長いものに巻かれろ的な考え方ができない人間なんだと、子供ながらに理解していた。

自分としては、そこまでして自分を育ててくれたことに非常に感謝している。世の中には虐待する親もいればネグレクトもいる。教育ママのようにキレる親もいるし、宗教にハマる親もいる。

じゃあ自分の親が良かったかというと、私にはわからない。自分の親以外知らないし、尊敬しているかしていないかで言えば、尊敬はしていない。それは、絶対に両親のような人生は歩みたくないと思ったからである。

両親は何かをサボっていたわけでもない。ただ、一生懸命に真面目に働いていた。子供のために金銭的な負担をかけまいという意志はひしひしと伝わってきた。父親は勉強だけが取り柄のような人間だったし、私がスポーツがそれなりにできたから、遺伝で考えれば、親も運動音痴というタイプでもなかったと思う。真面目で勉強するけど、東大にいくような切れ者タイプでもなく、地方国公立を卒業している。

真面目に生きて働いている人が、なんでこんな不遇な目に遭うんだろうか。毎日ひどく疲れている父を見ると、子供ながらにそれが不思議で仕方なかった。社会人に必要なコミュニケーション能力が足りてないと言えば、それで片付けられるかもしれない。それでもこんな疲れてまで、必死に生きるもんなんだろうか。

”尊敬”という言葉を自分の親に対して使うものなのか、自分としては微妙な感想だった。育ててもらって感謝はしている。だが、自分の人生は、親が必死になって育てた結果と釣り合ってない気がして、とてもじゃないが、自分が親を尊敬しているなどと言えるような感覚になれなかった。

親のせいで自分の人生がこうなったとは思っていない。だが、それ以上に、自分が生まれてこなかったら、親の人生がもっと有意義になったんじゃないかと思う。その一方で、なんで親は自分を産んだんだろうなとも思う。お見合いだから、別に好き同士でもなかっただろう。もちろん、そんなこと小さい頃には考えていなかった。自分が親になり得る世代になって初めて、そのような感情が湧いてきた。

普通の人間なら、一人暮らしをして20代になり、30代になり、親目線になって感謝が湧いてくるんだろう。そういう意味では私もかなり異常者ではある。

親が必死に育ててくれた努力と、自分の人生の充実感と、社会的な評価や結果が伴っていない。なんとなくだが、日本の若者が子供を産まなくなってきたのは、漠然としたこのような考え方に近いものがあるんじゃないだろうか。

”コスパ”なんて言われるが、子供なんか育てようと思ったら、絶対的に経済的なデメリットがあるに決まっているし、時間の制約や肉体的な拘束も生まれる。五体満足で健康体で生まれてくるかもわからないし、子供が一人欲しいと思ったら双子が生まれてくるかもしれない。

子供は結婚したら産んで育てるもの。みたいなシステム的に考えていないと、おそらく無理だろう。。

人生は思い通りに行かないことの象徴が子供なんだろうか。逆に言えば、人生を思い通りにコントロールしたいとか、自分の人生を優先させて楽しみたいと思う人は、子育てに向いてないとも言える。人生は成り行き的な考え方がないと、対処しきれない事が多い。

子供を産んで育てるという行為は、人間が地球に誕生してからずっと続いてきた行為だろうし、今よりもずっと貧しい時代から人間がずっと続けてきたことである。

それなのに、なぜこうも高いハードルのように感じてしまうんだろうか。昔は40歳で子供を産むなんて、考えられなかったかもしれない。社会的な見方としても、医療技術的にも難しいことだったに違いない。

それが今は、そこまで珍しいことでもなくなっている。環境はかなり改善されているし、国が子供を産むように推奨したり、自治体が出産費用から子供の医療費までタダのところもある。それでも、結婚や出産の意思決定を阻む障害が多いように感じる。

ここで、冒頭の動画について少し絡めた話をしたいが、なんというか、堀江さんにしろ成田さんにしろ、親に一種の距離感のようなものを感じる。それがある人が優秀になるということでもないし、親に感謝している一流企業の社長やベンチャー企業の社長もたくさんいると思うが、何か教育の観点では、共通するものを感じる。

親の影響を受けて勉強するにしろ、親の影響を受けないように自分で拒絶するにしろ、やはり親という存在は大きいものである。人間は魚じゃないので、生まれてからある程度の年齢まで親と一緒に住んで育てられることを前提としているし、親が年老いたら逆に子供が親の面倒を見るような感じにもなっている。

最近は親の面倒を見たくないから、施設に放り込んで音信不通みたいな子供もいるらしい。昔は子供が親の面倒を見て当然という感じだったが、親が子供の手を煩わせたくないという人もいれば、子供が結婚して子供もいるのに親の面倒まで見るのは御免という感じの場合もある。

うちの親は、「なんでみんな塾に行ってるのに、あんたは行かないの」とか、「予備校いかなくても大丈夫なの?」とか、しきりに聞いてきた。挙句の果てに、志望校の合格基準に数学の偏差値が1か2足りてないという理由で、3年の11月に塾に入れられた。塾側も迷惑だろう。そして、学校の成績で推薦で志望校に合格した。塾の人からしたら、まじでアイツ何しに来たんやという話である。

自分としては、「周りがしているのに」みたいな事を言う母親は尊敬できなかった。だが、父親はそういう事は言わなかった。父親は教育に金をかけるというよりは、こんな学校の教科書は一週間で終わらせろとか、自分で勉強しろと言うタイプだったので、私の価値観に近いかもしれない。だが、そういう父は父で、私と同じく社会の価値観から外れた異常者であり、尊敬の対象ではなかった。

動画の話に戻るが、動画の内容からして、私には共感できる部分が多かった。結局私が合格した志望校に行っても、周りに尊敬できるようなクラスメイトはいなかった。

志望校に合格して、高校の授業料払って授業中寝て、昼休みにニンテンドーDSやって、部活しないで予備校に金払って勉強するって、何してんだコイツら?と思っていた。だが、世間的にはそっちの考え方が常識かもしれない。おそらく関東以外の地方は高校が熱心だから、それもまた受験文化が違うんだろうか。

こういう人らが高い偏差値の大学へ行って、結局日本の中心になるような会社や役所へ就職するのだから、そりゃ変な国になるよな。と子供ながらに見えた気がして、嫌になってしまった。

もちろん、全員がそうじゃないし、東大レベルまで勉強して行った人は別格だから、そんなことはないと思う。堀江さんもよく言っているが、東大レベルの大学じゃなきゃ行かなくて良いと私でさえ思う。

東大には国の大学教育予算の半分くらいがブチ込まれているし、それだけ価値のある大学ということだろう。そもそも文系なんか本があれば勉強できるし、人と出会う以外の大学の価値は何だろうと思っていた。そういう意味では東大は就職予備校化していない。きっと尊敬できる人に出会える場所だと思う。

普通に会社に就職して、尊敬できる人に出会えている人が羨ましい。そういう人は大企業に行ったから出会えるとか、そういうものでもない。勉強できるから尊敬できるというものでもないし、学校の先生に当たり外れがあるように、何かの偶然で紡がれた運命のようなものに近い。

尊敬できる人が親という人が羨ましいとも思う。もちろん、立派な親なんだと思うし、逆に言えば、自分をこんなに立派に育ててくれたという結果の反映みたいな事なんだろうか。

自己肯定感という言葉は嫌いだが、自分のやりたいことをやってるならまだしも、何もできていないのに生きてるのは何なんだろうなと考えてしまう。そうなると、身勝手にも自分が生まれたルーツを否定したくなるものである。

ガラクタを作った生産者を尊敬する人はいない。それはガラクタから見てもそうだろう。自分が勝手にガラクタになったのか、ガラクタとして育てられたのか、それはわからないし確かめようがない。ただただ、自分の生きてきた軌跡が認められないまま、時間が過ぎていくだけの人生を傍観してる。



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