砂漠、薔薇、硝子、楽園、 (6)
feat.松尾友雪 》》》詳細 序文
》》》5.
イヅルの部屋に初めて入ったとき、仁綺は目を輝かせて、白いドーム壁いっぱいに書かれた数式に、頭を巡らした。
>6.イヅル_
「数独」の空いたマス目に、左上から順に答えを埋めていく遊びが、雨咲イヅルのお気に入りだった。イヅルはずっとひとりで遊んできたけれども、幣原仁綺が同じ遊びをできると知ったとき、仁綺と競争して遊べることを、素直に喜んだ。
「私の勝ち」
仁綺の笑顔を、イヅルはとても、気に入った。どこもかしこも時間が止まっていて、広大で、膨大で、薄暗く、静かすぎる…イヅルの宮殿を仁綺は裸足で訪れて、その足元に美しい花々を咲かせながら、迷宮のような内部を探索しては、それぞれの部屋にきちんと鍵がかかっていることを、律儀に確かめて回っていた。唇を尖らせて、次の扉に手を伸ばす仁綺の立ち止まった足元にも、耐えられないといった風情で花々は芽吹き、瑞々しく咲き誇った。イヅルはその様子を楽しむために少し離れたところから仁綺を追って、仁綺には見えないように、退屈しのぎを装って摘んだ花々のなかへ鍵束を隠して、仁綺に微笑みかけるのだった。
イヅルは仁綺の笑顔の全て、それぞれを忘れず、仁綺の絶頂の全て、それぞれを、忘れない。
仁綺はイヅルの笑顔の全て、それぞれを忘れず、イヅルの絶頂の全て、それぞれを、忘れない。
仁綺は、イヅルを、「忘れない」。
ニキの笑顔はとても素敵だ、と、イヅルは思った。正確には、感じた。そして、「感じる」という、その現象は、イヅルには滅多に起こらない、特殊な現象だった。
イヅルはベッドマットに寝転んだところから、数式がいちめんに描かれた丸天井を見上げた。美しい。シンプルで、強靭で、不動で、不変で、結論であり、前提であり、見つけるにはこれが「ある」ばかりでなく、これを見つける人間が、そして、これを見つける人間を認める人間が、必要だった。
人間の営みと世界の摂理が結びつく。
これは命と世界の、光の渚だ。
隣で寝息を立てている仁綺の、産毛の光る、艶消しの陶器のような滑らかな肌を、それから、イヅルは見つめた。ニキ。美しい数式のようだ。美しい。結論であり、前提である…。
仁綺は、時折、悲しげな表情を見せながら、眠っていた。イヅルはゆっくりと、目を閉じて、また開いた。
0.5秒。…0.5秒とは、イヅルの住むもうひとつの世界に「この」イヅルが住める時間だ。
イヅルはふたつの世界に生きている。もうひとつの世界は、「この」イヅルにふと、入り組んだ洞窟の奥から糸端を渡すような仕方で、囁きかける。「その」イヅルの視界は、瞬きのあいだのほんの0.5秒だけ、「この」イヅルとすり替わる。イヅルはゆっくりと3度瞬く。4度目に0.5秒、もうひとつの時間が見える。
廊下。青い絨毯。
3度瞬く。4度目、仁綺の残像の向こうに、その7秒後の「世界」が見える。イヅルは飛び飛びにひらける視界を繋げて、「その」イヅルを、知ろうとする。
廊下。立ち止まっているらしく、情報は集めやすい。左側に大きな、曇りかけた窓が並んでいる。外は生い茂った茂みで、植生から寒暖差が大きく、雨の多い地域らしいことが知れる。ドアは右側に3つまでは見える、こちら側が陽光で明るく、窓が切れる向こう側が暗く、突き当たりの角台に礼拝用の大きな蝋燭が灯っている。古びた、洋館…。
浮かび上がるそれは、目が慣れた瞬間に遠のく。3度瞬く。4度目に、その7秒後の世界が…。
仁綺が目を覚ました。
0.5秒で何がわかる?
いや…違うな…0.5秒で、何ができる?
イヅルは瞬きの「遊び」をやめて、仁綺に眼差しを注いだ。
「おはよう。ニキ。君、泣いているよ」
「うん」
「夢?」
仁綺は指の背で頬を拭った。
「わからない。イヅルがいなくて、私はそれが恐ろしかった。考え事をしていたのもしれないし、夢を見ていたのかもしれない」
「きっと夢だ。よく眠っていたよ」
「夢だといいな」
「どんな夢?」
「蟹が…」
仁綺は、イヅルに抱きついた。
「沢山の蟹が、私を食べる。それからスグルが私を起こす。スグルは私と夢の話をする。スグルが、イヅルはいないと言う。夢だといいな。夢じゃなければ、とても、つらい」
「夢だよ。ねえニキ、君は僕といま、ここにいる」
イヅルは仁綺を抱き締めた。
イヅルは、仁綺の拍動が和らいで、仁綺の涙が乾くまで、仁綺の背中に手を当てて、ときどきは撫でながら、抱き締めた。
やがて、濡れた感触に気づいて、仁綺の脚のあいだに手を差し入れたイヅルは、溢れてとどまりきらない仁綺を見つけて、微笑んだ。
「僕とこうやって、ただ、抱き合っているだけで、君はこんなになるんだね」
仁綺は、ゆったりと確かめるイヅルの手つきにほんの少し、声をうわずらせながら、微笑み返した。
「うん。とても高まるのに、とても落ち着いていて、不思議。イヅルの体は、日向で寝転んでいて気持ちいい春みたいだね。安らかで、暖かで、触れ合うのを心から楽しめる」
「ふうん。スグルは?」
「スグル? スグルは私の裏を掻こうとする。ずるい。でも、それが…とても…いい…」
「3人でする夢を見たい?」
「見たいと望んだ、夢が…見られるのなら、見たいと思うことも、…あるかも、しれない」
「見ないんだね」
「見ない。…そういえば、見ない、な…」
「見るとしたら?」
イヅルは深く指を挿し入れて、ぐるり、と、回してみた。仁綺の、涙の乾いた跡が砂をまぶしたように白い、長い睫毛が、震えた。
「ああ…あれ、かな。ふたりに、左右別々に触ってもらうやつ。特に、両耳を同時に舐めてもらうのは、堪らない」
「『半分こ』だね」
仁綺はイヅルの胸のなかから、イヅルを見上げた。イヅルが触りやすいように、上側の脚を開いて膝をイヅルの腰に掛け、仁綺はつまらなそうに、呟いた。
「私は分割できない」
「僕たちの言いかたは君には、謎めいていることもあるだろうね。土にしてみれば、領土という概念も分割という概念もない」
「浮薄。言葉遊びだな。対象が既に概念だもの。…土は…『ある』だけじゃないよ、変化するし、循環する。大地も。それが…『ある』と、いうこと」
イヅルは仁綺を探る手の動きを緩めて、合わせて息を整えた仁綺の口許の潤いと、仁綺の入り口の優しさと温かさを、愉しみながら、微笑んだ。
「ニキは、どこかにいきたい?」
「わからない。ここには設備も文献もないし、スタッフもいない。少なくとも、私がここで免疫学者でいるのは難しい」
「免疫学者でいたい?」
「免疫学者でいるのは楽しい」
「君は限界だった」
「うん。だから、どこへ行きたいと思えばいいかは、いまはわからない」
「わからなければここに、いればいいんだよ。ニキ。君の望みではないかもしれないが、君がどこへ行きたいと思えばいいか、ずっとわからないままだと、僕には都合がいいな」
「いまは、わからない」
「ああ。そうだね。いまは…」
イヅルは体を起こして、仁綺に重なった。仁綺と唇を交わしながら、次第に、潮が満ちるような鈍い確かさで、イヅルは仁綺を満たして、やがてはっきりと、繋がった。
「ニキ。波のよう?」
「散歩のよう」
「気持ちいい?」
「とても」
「ニキは、自分は別の世界にも住んでいるって思うこと、ある?」
「ない。でも、なにもかも夢のなかみたいだと思うことがある」
「目が覚めなければいいと思うことは?」
「これが夢ならね。この夢がいちばん、明るくて優しい」
「ニキ」
「なに?」
「あたたかいね」
「うん。あたたかい」
「散歩するみたい?
「いまは、虹を滑るような心地」
「ニキ」
「なに?」
「ニキ…」
「ニキはいま、なにを考えている?」
「わからない。考えごとは、してるみたい」
「ニキ?」
「…」
「ニキ…眠ったの…?」
「おはよう。ニキ。泣いていないね」
「うん」
「夢は?」
仁綺は指で頬を辿って、乾いているのを確かめた。
「わからない。見ていたのかもしれないし、考えごとをしていたのかもしれない」
「よく眠っていたよ」
「うん、よく寝た気がする」
ふたりはブランケットを纏わりつかせながら、目的もなく、目的地もなく、波のように、散歩のように、虹のなかを滑り落ちるように、互いの身体を愛撫しあった。
「ニキは、何かしたい?」
仁綺は、雲間に横たわって半睡半醒するような眼差しで、イヅルを見返して、重たげにイヅルの手を取った。イヅルは、それをまた取って、仁綺の爪の色を調べた。嬰児の爪色だ。桜色に滲んだ光沢に眩しく差し込む、くっきりとした、たくさんの三日月…。
「わからない」
仁綺は短く答えて、天井を見上げた。それからしばらくすると仁綺は、記号と数字が渾然と連なって、反転した満点の星空のようにも見える、丸天井を見つめたまま、イヅルに問うでもなくぽつりと、呟いた。
「人はどうして、何かをしたがるんだろうね」
>次回予告_7.ニキ
「夢を叶えるために力を尽くすからと言って、現実主義者でないとは言えないよ」
》》》op / ed
今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。