見出し画像

砂漠、薔薇、硝子、楽園、 (5)

feat.松尾友雪 》》》詳細 序文

》》》4.
「ルリは静かに泣いていた。とても温かい、とても温かいと、何度も呟いていた」

>5.スグル_

「引っ越し」て屋根裏部屋の割り当てになった雨咲イヅルが、自分の部屋のためにまず、したことは、ドーム状の円壁を白く塗り、「いつも見ていたい、美しい」式でその全面を埋め尽くすことだった。デジタルサイネージを勧めたスグルに、イヅルは首を振って、脚立とペンキ用具一式の調達を依頼した。数式を書き上げたイヅルは、式を邪魔しないよう、姿見以外の背の高い家具は全て、低くて壁に沿うデザインのものに替えた。そして部屋の中央、木漏れ日の差し込む天窓の真下に、クイーンサイズの分厚いベッドマットを置いた。イヅルは1日の大半を、ベッドマットの上か、あるいは設計の都合でできている奥まった暗がりにしつらえた「窖(あなぐら)」…ボットが揚げてくる情報をひっきりなしに掲示する、5面ディスプレイの前に座椅子を置いた一角で、スグルの見る限りはまるで置物のように、何をするでもなく過ごすのが、常だった。

イヅルの部屋に初めて入ったとき、仁綺は目を輝かせて、白いドーム壁いっぱいに書かれた数式に、頭を巡らした。行ったことはないけれどもきっとプラネタリウムはこんなふうだろう、と仁綺は言い、それから一週間、イヅルの部屋に籠もり切りになった。イヅルはそのあいだにコンドームを4ダース使い切り、5日目からスグルも1ダース、使い切った。仁綺は2週めはほとんど眠って過ごした。目覚めて、イヅルか、スグルか、イヅルとスグルがいれば、セックスをして、その途中か、その終わりに、糸が切れるようにまた、眠りについた。

二人の家に来た時、仁綺の髪はまだ、肩先より少し長いくらいにはあった。汗と摩擦で後ろが鳥の巣のようになる、仁綺の鹿毛色の細い髪に、スグルは櫛を通してから、仁綺を風呂に入れた。仁綺にはそれまで、浴室でゆっくり過ごす習慣がなかった。シャワーだけ浴びてすぐに出ようとする仁綺を制してスグルは、花を浴槽に撒き散らしたり、仁綺が好きだという曲が見つかるまで試聴ボタンを押し続けたり、古今東西の漫画本のあらすじを読み聞かせたりした。時折、考えごとをすると言ってスグルを締め出すことがある以外は、欧米式のそのバスルームの、トイレットに腰掛けて仁綺に付き合うスグルを、仁綺が鬱陶しがる様子はなかった。

仁綺はイヅルの話をすることもあった。
「イヅルのノートはとても綺麗だね。キラキラしていて、開くと光が溢れるみたい。とても素敵」
学会に持っていくよりは病院に持っていったほうがまだいいだろうと思われるほど怪しげに書き潰されたイヅルのノートは、スグルには人間の暗部にしか見えない。スグルは「へえ」とだけ答えた。

仁綺は簡単な料理を手早く、作ることができた。スグルには、意外だった。裸に白のTシャツだけ被って、「引越し」から結局いちども使われていなかった、イヅル用のターコイズ色のエプロンをつけた仁綺と、スグルは並んで立って、話をした。仁綺の内腿から膝にかけての曲線は、仁綺の体のなかにも似た不思議な吸引力があって、スグルは触るのも、見るのも、好きだった。
「イヅルは時計を茹でながら卵を見てるタイプなんだ。ニキまでそうじゃなくて助かった」
仁綺は菜花を片手に、沸騰しつつある鍋肌の気泡を、じっと見つめていた。
「ふうん。私は毎日、飯盒炊さんみたいだったな。色々な酸で紅茶に味をつけたり、シャーレでデザートを食べたり、検査結果が出るまで寝袋で寝て、ひと晩じゅうおしゃべりをしたり」

仁綺はひと呼吸置いて、ぽつりと、問いかけた。

「スグルは、大変じゃないの?」

スグルは黙って、瞬いて、やがて、肩を竦めた。
「君らみたいな人たちには、想像がつかないのかもしれないな。僕は、人の役に立つのには、生き甲斐を感じる。だからエンジニアになった」
仁綺は鍋肌から目を離し、そして、スグルの瞳を覗き込んだ。仁綺は、菜花を持っていないほうの右手で、右に立って後ろから仁綺の内腿をなぞっていたスグルの左手を取って、指先に口付けると、両手で菜花を持ち直し、根本の太い部分をお湯に浸け、花の部分を押さえて沈まないようにした。

仁綺はスグルに言って、髪を短く切らせた。

仁綺の髪にできる毛玉をほどかなくてよくなり、スグルの仕事はひとつ、なくなった。スグルは《皿洗い》のアルバイトに加えて、リスト企業のシステムの浅い階層にチンピラハッカー向けのバックドアを仕込む、《シール貼り》の内職をすることにした。



>次回予告_6.イヅル

「人はどうして、何かをしたがるんだろうね」

》》》op / ed


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。