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大人の領分⑤澪里(みおり)

  人間の関係というのは、どんな関係でもせいぜい、ひと言で済むものだ。本人。血縁。配偶者。隣人。同僚。恋人。けれど、それ以上のことを言おうとすると突然、端の一本を引いたとたんに見苦しく絡まって手に負えなくなる、頭の痛い配線のように、ありとあらゆる背景が渾然一体となって溢れ出てきて、どこからどう話したものか、さっぱりわからなくなってしまう。どんな関係ですか?…ひと言で答えないとしたら、あとは長編小説でも編むか、そうでなければ意味深に微笑んで黙るかだ。そして…澪里が、あれ、苗字違うんですね、と思わず呟いたとき柚希さんは、簡単なほうのひと言を口に出さないまま、ただ、意味深に微笑んだのだった。

  苗字が違うだけではなくて…柚希さんと蓮くんとのあいだには、微妙な距離がある。蓮くんはまだ低学年のくせにフルセットで自分の部屋をちゃんと持っていて、柚希さんはまるで寮母のように振舞っているし、ほんのたまに蓮くんは「お泊り」でいなくて、柚希さんはそれを「友人」の家に行ってるの、としか言わずに、しかもなんとも思ってないみたいだった。柚希さんは蓮くんに幼稚園時代のことを訊くときがあるし、共通の血縁がいるふしもない。蓮くんの両親のうち片方は「タエコ」という名前らしく、蓮くんは柚希さんと「タエコ」をどちらも呼び捨てにしている。もうひとりは「ハルカ」だ。柚希さんは、蓮くんから話さない限り、この二人のことを口にすることはないし、蓮くんが「タエコ」や「ハルカ」の話をしても、のらりくらりとした、曖昧な言葉を返すだけで、近頃は蓮くんのほうが、名前も出さなくなってしまった。…だいたい、柚希さんは男性と別居「婚」しているというけれど、パートナーは女性ではないかと澪里は感じていて、だから指輪はその人とお揃いなのかもしれないし、もしかすると書類の上では柚希さんは、結婚していないのかもしれない。

  結局、柚希さんが「一介のインテリアコーディネーター」にしてはいい暮らしぶりをしているらしいことと、出産経験があるとは思えないこと、澪里の住む1008号室の、09のほう、広い部屋タイプのほうの隣に、苗字が違う子どもと同居していることくらいしか、澪里にはさだかに知れない。「ハルカ」の性別も判らなければ、柚希さんが蓮くんの「保護者」なのか、「友人」なのか、「恋人」なのかさえ、判然としないけれど、それでも澪里は自分から何かを尋ねたりは、しないのだった。一歩でも、踏み込めば落下してしまう、崖に立っている気がして、澪里は自分からは、二人の身の上話に踏み込めないままだ。

  「タエコ」といえば、蓮くんは澪里を「タエコ」そっくりで…小学二年生ってそんなものだろうか?…うつくしい、と言ったことがある。塾へ迎えに行って、手を繋いで帰った夜のことだ。

  澪里ちゃんは、「うつくしい」んだね。そういえば、タエコはもっと、かわいいなぁって感じがする。澪里ちゃんはタエコみたいだったのかな。タエコは、澪里ちゃんみたいになるのかな…?

  一年のあいだに、澪里の手を握り返す蓮くんの手は、みるみる大きくなって、澪里は蓮くんといる時間が増えるほど、蓮くんを、蓮くんとしてしか、見れなくなった。蓮くんは子どもというにはあまりにも、すとんと、蓮くんなのだ。澪里はまるで、眼鏡をかけていることを忘れて眼鏡を探していたことに気づいた人のような、狐につままれたような気分で、ひとりごちる。そう、蓮くんは、子どもというにはあまりにも、蓮くんなのだ。

  柚希さんが、違うよこいつ、家でだけ大人ぶってんの、と笑って蓮くんを小突いたときのことだ。蓮くんは、そりゃ、好きな人のまえでは大人でいたいもん。と照れ笑いしながら柚希さんを見つめ返して、その大人びた、まつ毛の長いすっきりとした横顔に、思わずどきりとした澪里に、ね、おれ、かっこいい…? と、横目で、微笑んだ。…ほかはどこもかしこも、似ていないのに、思わせぶりな微笑みだけは、柚希さんにそっくりだと、澪里はそのとき、思ったものだ。

  そもそも澪里がどうして…。

  そもそも?

    いま澪里が、平日の昼下がり、柚希さんの寝室へ許可もなく入ることができていて、留守番のふりをしてみていても特に不自然ではない、ことについて、きちんと説明するために、澪里は、物心がついた時からのあれこれのできごとや、澪里が35年にわたって出会ってきた人たち、そのあいだに考えてきた、いくばくかは難しいと言えるようなことについて、説明する必要があると感じるし、それを伝えない限り、何も伝わらないと思う。とはいえこれを、ひと言で言い表すこともできる。澪里はここで時間を潰している、とか、澪里はぼうっとしている、とか。あるいは、もう少しなら、詳しく言うこともできるだろう。澪里は、自分が苦悶の表情で柚希さんのベッドの上に立ち、「服従のポーズ」をしている、カラープリンタで印刷されたA4用紙を手に持っていて、こういう…なんというか、人生の、見るに耐えない複雑さについて、ついに考えるのを諦めようとしている…とか?

  苦渋に満ちた、悲しげな顔つきの自分が、脚を外開きにして中腰になり、頭の後ろで手を組んで腰を前方に突き出して、濡れそぼった陰部を画面の中心に据えてフラッシュで撮られていて、そのカラー印刷を、いままさに、そのベッドに腰かけて眺めている、そもそもの…そう、そもそもの…いちばん直接的な事情としては…今日は澪里は週一回ある短時間労働日で、蓮くんの学童のお迎えまで時間があるから、ここで自慰でもしようかと思った。もう少し間接的な事情としては…澪里はいつも、柚希さんにもっと近づきたいという気持ちと戦っている。やや、遠い事情…澪里には特に生きる目的のようなものがなくて、身近な人の役に立つのが好きだ。…いっそう遠くて、もう少し根源に近い事情…澪里は荻原さんとは荻原さんの性癖のせいで手を切ったと思っていた。最後に…たぶん、いちばん遠くて、いちばん根本的な事情…澪里が誰かを愛そうとすると必ず、その人には澪里以外に、澪里よりも、愛している人が、いる。

  ほら、引き抜こうとすると全てが絡まって、こんがらがって、何が何だかわかりやしない。一体どこから、話せばいい?

  澪里は柚希さんの左薬指から指輪を抜きとることはできないし、蓮くんを攫って一緒に暮らすこともできない。

  澪里はカラー印刷を小さく折りたたんで、腰を浮かしてジーパンのポケットに突っ込もうとしたけれど、思い直してもう一度広げて、枕に立てかけるように斜めに置いた。

  オギーは写真は撮らなかったんでしょう? だったら、私はせめて、写真が欲しいな。

  柚希さんはひとりのとき、この写真を見ている…澪里はジーパンを太腿のあたりまで下げて、ベッドに横たわった。下着の隙間から指を入れてみると、写真を見つめているあいだに蕩けきっていた澪里はすんなりと、それを熱く、柔らかく、受け入れた。

  こんなはしたない格好の澪里に、オギーはなんて言ったの?

  …なんにも言わなかったよ。にやにや…笑って、見てただけ…。

  ああ、…じゃあ、なにか言わせたんだね…? 澪里はオギーになんて言わされたの?

  …。

  澪里とオギーだけの秘密なの? オギーには言ってあげれて、私には言ってあげれないことなんだね…?

  …。「なんでも」…「なんでもいいから、入れてください」…「お願いなんでもいいから」って、…言った…。

  自分でも思いもよらない、澪里は自分が柚希さんに言った言葉を思い出しただけで、簡単に達してしまった。

  澪里はこのときは…でも…つらくて、泣いていた。だって、どうして…? どうして、今度こそ、今度こそって、澪里は…こんなはずじゃなくて、どこまでも萩原さんが付いて来て、…澪里は泣いていて、柚希さんはそんな澪里の頰を、伸ばした手で優しく包んで、澪里の髪を左耳にかけ直して、自分も髪を右耳にかけた。柚希さんは普段着に着替えてはいたけれどメイクも、ピアスもそのまままだった。柚希さんの右耳には、しゃらしゃらと音が鳴るのを澪里が絶頂のさなかで聞いたことのある、金鎖のピアスが、揺れていた。柚希さんは、だめだよ、まだそのまま、それで? オギーは澪里に、なにを入れたの? って、訊いた。

  何にも…。

  ほんとに…?

  …私を見ながら自分でいって、…また勃つまで、ずっと、私に自分でさせた…。

  澪里は、いった?

  ううん…。

  こんなふうに、泣いてたの?

  ううん…。

  柚希さんは澪里をそっと撫でて、濡れた指先を澪里の、とても敏感なところに、滑らせた。

  こんなふうに盛り上がって、ぬるぬるにしてたの?

  …。

  入れてほしかった?

  …。

  なんでもいいから、入れてほしかった…?

  ううん…私…私あ、愛、して、ほしかった…。

  腕を組んでいるせいで涙は流れっぱなしで、頰が冷たかった。柚希さんは瞳を潤ませながら、オギーに、愛されたかったの…?と、掠れるような小さな声で、呟いた。澪里は情けない格好で、洟も拭けないまま、柚希さんに謝った。

  …。…ごめんなさい…。

  ごめんなさい…ごめんなさい…と、繰り返す澪里の臍から、柚希さんはまっすぐ首までちろちろと舐め上げた。謝りながらも声が乱れる澪里の、両胸の先端を、柚希さんは指の腹でくるくると擦った。

  あ…ごめ、ん、なさい…。

  柚希さんが澪里を見つめたままゆっくり、おおきく瞬くと、つうっと、潤んだ目から涙が、柚希さんの頰を伝った。

  ね、澪里は、私に会えて、よかったね…?

  澪里は無言で頷いた。何度も。謝ったのと同じように、泣きながら、何度も。

  澪里は、その格好のまま、柚希さんに愛してもらった…澪里はもういちど、達したあとは、しばらく下着から手を抜くことも忘れて放心していたけれど、枕元のティッシュで簡単に始末をしてから、紙をたたみ直して、…やっぱりやめて広げて、澪里がそれを見つけた、PCデスクのクリアファイルの、製図の中にまた紛れ込ませて、…手を洗って、メイクを直して、蓮くんのお迎えに出た。



  続き、抱っこして教えて?

  蓮くんは澪里のほうにドリルをずらして、澪里の答えを待たずに、上に乗ってきた。

  えー、蓮くん、今日は甘えん坊さんなの?

  うん、「ひとはだこいしい」んだよ。今日はちょっと、寒かったし…。

  澪里は蓮くんの温かい重みを太腿の上に感じながら、さらさらのくすぐったい髪を、なでつけた。

  あったかい?

  うん。しあわせ。

  澪里はドリルを眺めた。コンパスで描く、入り組んだ円の隙間を、尖った色鉛筆で鮮やかに塗りつぶすような蓮くんにこんな、太い線で簡素に描かれた白黒の発芽や結晶は、どんなふうに見えているんだろう? ひらがなだけの世界を、蓮くんはどう泳いでいるの? 子どもぶっているのは、疲れない? それとも、柚希さんが言うように、ここで大人ぶっているだけ…?

  あーこれは?

  もう答え選んでるじゃない、「あ.」で合ってる。

  合ってても。なんで合ってるのか、わかんないんだよ。選ぶだけは、楽だけど、難しいな…。

  どうして?

  答えの文が、隠しごとしてるから。

  隠しごと…? …。そっか、そうだね…そうかもしれない…色んな研究をしているひとがいて、長い時間をかけて難しい証明をして、この文があるんだ…。きっと、隠しごとしてるんじゃなくて、ここでは、こんなふうにしか、言えないんだよ。

  蓮くんは澪里がまだ話し終わらないうちから、びっくりするくらい軽やかに身をひるがえし、澪里の腿のあいだにつま先をついて向かい合いに、しゃがんだ。

  え、…。

  ちょっと思いついたことあるんだけど…。

  蓮くんはそのまま顔を近づけて、鼻に鼻をぶつけてから、耳元でひっそりと、あのね、と囁いた。息がかかって、澪里は小さく、震えてしまった。

  なに…? くすぐったいよ。

  おれと、澪里ちゃんの、隠しごとね。

  ほとんど音のない囁き声が、澪里の鼓膜を撫で上げた。蓮くんの唇が軽く、澪里の耳朶にあたって、蓮くんの唇の温度を、伝えていた。

  …?

  ないしょのはなし、たのしいね。

  ひそひそ声の圧力で耳穴に注ぎ入れられる吐息が、澪里をどうしようもなく煽り立てた。この子…?

  顔を離した蓮くんは、気まずそうに、ズボンの中に手を入れて、下着の上から性器の位置を直して…ぎょっとした澪里に、はにかんだ。

  …。ときどき、こうなるんだ。気にしないで。

  うん…続き、宿題、しなきゃ、ね。

  蓮くんはにっこりと、笑いながら、いちど強く、澪里の頰に頰を合わせて、またくるりと体を回し、澪里の腿の上に収まった。くすぐったい髪の毛。澪里は頬で抑えた。ドリルを淡々と解きすすめる蓮くんの頭からは、春の日差しを浴びた土の匂いがして、澪里の頰をじんわりと、温めた。

  澪里と蓮くんは、一緒に作ったちらし寿司と、すまし汁と、サラダを、柚希さんの分を取り分けて先に食べて、柚希さんの帰りを待った。部屋着に着替えて夕食を前にした柚希さんの向かいに、澪里は蓮くんと並んで座って、蓮くんとぶどう味の寒天ゼリーを半分こして、食べた。澪里は、2日残っている「夏休み」を年度中に消化しなければならないことを、二人に話した。

  土日は…いつも、用事があるんだよね。

  二人はそっくりに微笑んで、頷いた。

  蓮くん、ちょうど春休みでしょう。ただ休んでもつまらないから、蓮くんと温泉に行きたいなって、思ったんだけど、どうかな。

  蓮くんはくっつけていたダイニングチェアの上に膝立ちになって、澪里に抱きついて頬ずりした。

  温泉! どこ? いとう? はこね? あたみ? おれ、澪里ちゃんといっしょに入れないとおもうから、家族風呂があるところがいいな。

  いいじゃんいいじゃん。二人でしっぽり、いちゃいちゃしてきたらいいよ。私はのんびり、一人暮らししちゃおうっと。

  あーそういうのダメ、言わないよ? おれ、ごきげんで出かけらんない、と、蓮くんは柚希さんを指差した。澪里は、蓮くんの腕がかかったままの首を小さく傾げながら、静かに微笑んでいた。

  会社の福利厚生でそんなにお金がかからないから平日なら澪里が持てるとか…学童の申請があるから日付は確定したら早めに伝えてほしいとか…事務的なことは、汲んで注ぐ水が水路を流れるようにすいすいと進む。柚希さんが夕食を食べ終わったところで、澪里は自分の部屋に帰った。

  これが、自分だ、と、澪里は思う。暗い部屋。ひとり分のスペース、ひとり分の荷物、ひとり分の食器。澪里は電気をつけて、ひとり掛けのソファに座った。ノートパソコンを膝の上に置いて、特に決めるでもなく旅館の検索をしていると、ベランダのほうがふと暗くなって、二人の部屋の電気が消えたのが、わかった。澪里はしばらくサイトを見比べてから、宿を決めて、パソコンを閉じた。

  電気をつけていても、照明の寿命が近いのか、どことなく、部屋が暗く見えた。LEDにしようか、と、澪里は閉じたパソコンをまた、開けた。夜は寂しいけれど静かで、この画面の向こうには、なんでも手に入りそうな世界が、広がっている…。値段は想像していたよりは、高くない。家電量販店で買って帰ることにして、澪里はまた、パソコンを閉じ、閉じたパソコンの上に手を乗せて、しばらく、考えごとをした。

  澪里が…無視しようとしている事実がひとつ、ある。

  何もかもが入り組んでこんがらがっている、と言って頭を痛めている、この澪里の存在じたいは、引き抜こうとすればするりと、何に絡むこともなく、一本だけ簡単に、抜き取れるのだ。

  魔法のように。

  それは、魔法のような、けれど、事実だ。

  澪里は柚希さんの左薬指から指輪を抜きとることはできないし、蓮くんを攫って一緒に暮らすこともできない。

  それは、澪里が大事な何かを失うから、ではない。

  澪里には、大事な何かを失わせるだけの何かが、ないからだ。

  澪里は自分がしみったれたしかめ面をしていることに気づき、何度かぎゅっと、目を開けたり閉じたりして、背筋を伸ばした。ノートパソコンをローテーブルに置いて、澪里は風呂湯を溜めるために、立ち上がった。


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。