砂漠、薔薇、硝子、楽園、 (4)
feat.松尾友雪 》》》詳細 序文
》》》3.
仁綺は、悲しんだ。
>4.イヅル_
「雨咲イヅル」は戸籍上、故・雨咲ルリの息子で今年47歳になる男性として、実在している。
仁綺が知っているイヅルは24歳の青年で、このイヅルの「祖型」は、雨咲ルリの亡兄、雨咲マヤだ。
47年前、雨咲ルリの「第一子」は、雨咲コーポレーションラボの豚の胎内で命を得た。この「雨咲イヅル」は生後30分で死亡した。結果を受けてルリは、同じ頃、雨咲マヤの凍結精子からの非合法な人工授精によって、マヤの秘書兼恋人が産み落としていた「忘れ形見」を、血眼になって探し、半ば掠奪した。公的な氏名を持たなかったその嬰児は、雨咲イヅルと名付けられ、雨咲コーポレーションラボの後継者となるべく、雨咲家に養われ、育てられる運びとなった。
雨咲ルリという女性は、雨咲マヤという諦めの悪い天才科学者の妹であり、自身も諦めの悪い天才科学者であり、欲望に忠実な行動家であり、野心的な起業家であり、なにより、兄を愛していた。精神上の不滅の愛を誓い合った兄・マヤにもういちど会うことだけが、ルリの私生活における唯一の夢になっていた。長年の、根気強い研究と実験のすえに、雨咲ルリはついに、3年以上生き延びた個体を一体だけ手に入れ、その個体はラボの一角で、「正規の」雨咲イヅルとして丁重に、経過観察された。
雨咲ルリにとって、雨咲マヤの「生き写し」のみが、「雨咲イヅル」だった。
ルリは「正規の」イヅルを愛おしみ、慈しみ、その絶大な力で守り抜いた。雨咲マヤの細胞は不死化できず、「正規の」雨咲イヅルは「最後の子」になったが、ルリは雨咲イヅルから採取した細胞の不死化には、成功した。「正規の」イヅルの誕生から5年遅れて、イヅルの細胞を祖型に、雨咲スグルが誕生した。
雨咲ルリは、失望した。雨咲スグルは、雨咲マヤや雨咲イヅルのような天才を与えられているようには、見えなかった。浴び続けた返り血で暗く照り染まった法衣を纏い、闇社会の玉座に君臨しながらも、袖から出す白い手では人権保護活動の帳簿を繰り、人目を忍んでは慈善家の仮面を優雅に構えて秘密の社交場へ出向く、乖離的な趣味のあったルリは、充分な教育と環境を与えてスグルを庇護するいっぽうで、スグルとイヅルの接触を厳しく、禁じた。
さて、「非正規の」イヅル…すなわち、雨咲コーポレーションラボを統率しているほうのイヅルには、雨咲ルリのこういう周辺事情は無論、大いなる頭痛の種だった。ルリは雨咲家にとって、唯一無二の頭脳であり、成長の核であり、金の卵であり、企業意志であり、政治力の根源であり、つまり、全てだった。この、狂乱した愛情に促されるまま生きる、偏執的な女性が、雨咲マヤとイヅルとを愛し、その大いなる天才と尽きることのない労力を、雨咲家を守るために注ぎ込んだからこそ、雨咲コーポレーションラボはクローンビジネスの雄として、世界を席巻できていた。「非正規の」イヅルには、類い稀な商才しかなかった。そして、類い稀な商才を持つこの「非正規の」イヅルにとって、自らの出自を隠蔽したり、倫理的に問題のある実験を法に通さないまま行なったりすることは、大きすぎるリスク以外の何ものでもなかった。
雨咲ルリは、ある日を境に延命的措置の一切を拒み、96歳でこの世を去った。
臥薪嘗胆の思いでこの機会を待ち、この日のために淡々と雨咲家の家業をサプライサイドに移していた「非正規の」イヅルは、雨咲コーポレーションラボから研究部門を切り離し、ルリの残滓をすっかり「洗浄」したうえで、売り払った。ついでに「洗浄」されそうになった雨咲スグルは、「正規の」雨咲イヅルと自分たちの資料とを盗み、脅しを兼ねた置き土産として、新生「雨咲グループ・ホールディングス」と対立する大手企業から不正な不動産データを抜いて、匿名通報した。最終的に、スグルはその実績を闇市場の《総合商社》、「シベリア・セキュリティ」社に持ち込み、その福利厚生事業部「喫茶パノラマ」での《皿洗い》のアルバイトに、ありついたのだった。
雨咲イヅルと雨咲スグルは、自分たち「兄弟」にまつわるこの、長く不可思議な物語を、仁綺を「拐って」きた日から二週間にわたって、仁綺に語った。仁綺は、イヅルとスグル、それぞれの物語に二週間、耳を傾けて、最後に短く「面白くて、好き」と、感想を述べた。イヅルとスグルは顔を見合わせて仁綺に微笑みかけ、アジア系の複数政府が密かに巨額を投じている黒い純白の巨塔、「インタステラー・ウァマステカー」に身代金を要求するのをすっぱりとやめて、この鹿毛色の髪の、少女の姿をした23歳の免疫学者、幣原仁綺と、暮らすことにした。
「ルリはとても素敵な女性だった」
イヅルは仁綺の頭を、胡座にした裸の腿に乗せて、話の続きをした。仁綺の体を拭いた、そのウェットシートと一緒に、イヅルが投げ捨てたコンドームを始末して、ついでに飲み物をとって戻ってきたスグルは、イヅルの反対側、一糸纏わぬ伸びやかな肢体を気怠げに投げ出して休んでいる仁綺の、脚の間に腰を下ろし、仁綺にボトルを渡しながら、眉を顰めた。
「信じようがないね。データから見る彼女はまさに、悪党の中の悪党の中の、さらに悪党だよ。記憶する限り会ったことはないから、強くは主張できないけど、少なくとも写真は性格診断不要なくらい相当『やば』かった。僕には、『極悪おばあちゃん』だな」
否定的なスグルに向かって、イヅルはわかりやすく、憐んだ眼差しを向けた。
「君は、女性に愛されたことがないんだな」
「君が好かれすぎなんだ」
「否定はしない。みんな、僕を好きになる」
「『極悪おばあちゃん』でさえもね。まあ、君と違って僕には幸い、女性全般という枠組みがない。愛する人に愛されれば、僕はそれでいい」
淡白に言い返したスグルに、イヅルは、見上げる仁綺の頬を優しく撫でながら、微笑んで答えた。
「ふうん? 僕は現実主義者だし、君ほど体裁に拘らない。『全般』という君の言い回しには、僕には一種のエクスタシーがあるよ。僕は誰にでも愛されたいし、何にでも、僕への愛を感じたい」
「どうだかね。そもそも君に、愛情に対する感受性って、あるのかな。というより、イヅル、思うにさっきから君には、自分から愛するという方向性が欠けてるよ」
「欠けているどころか、満ち溢れているさ。僕は僕なりに、この世の森羅万象を愛しているつもりだ」
「私は、どちらも好き」
向かい合って座り言い合っている二人を交互に見て、仁綺はイヅルの手を握り、スグルの腰に足先を沿わせた。
「どちらの考えかたもってこと?」
スグルは、胴に絡んでくる仁綺の脚のふくらはぎから、腿の内側へ、指を辿らせながら、仁綺に尋ねた。
「ううん。意味はない。喧嘩してるみたいだから」
スグルは体を折って、仁綺の臍に舌を入れた。イヅルは、腿に仁綺の頭を乗せ直すと、仁綺の髪を整えて、仁綺の耳にかけた。
「ルリは、素敵な女性だった。僕は彼女に、キスしようとした。彼女は顔を真っ赤にして首を振った。とてもキュートだった」
「この時、その人は90歳だよ」
スグルは仁綺の膝をやんわりと摩った。
「僕は老人虐待だと思う。『極悪おばあちゃん』の気持ちなんか、どうしたってわかりゃしないけど…次のくだりだよ、僕はなんだか悲しくなって、いたたまれない気持ちがする」
「なぜ悲しい?」
「なぜって…」
「悲しいの?」
イヅルは、問いかけた仁綺の肩に手を置いて、親指で仁綺の鎖骨をなぞった。
「『悲しい』? さあ…スグルがそうであるように、聞く人によっては、そういう感想を持つこともあるかもしれないね。ただし、ルリが感じていたのは深い喜びと、明るい、安らぎだったよ。ルリは処女だった。僕たちはとても神聖な一夜を過ごした。僕は彼女の全身にキスをした。僕たちは裸になって抱き合って、それから僕はまた彼女の全身にキスをして、また、彼女と抱き合った。ルリは静かに泣いていた。とても温かい、とても温かいと、何度も呟いていた」
仁綺は、話し終えたイヅルの手を取って、自分の頬に当てた。
瞬いた仁綺の目尻から、涙が流れ落ちた。
「ああ。わかるよ。イヅルは、あたたかい。とても」
そのまま、逆向きに顔を重ねてキスを交わす二人を眺めながらスグルは、さっきまでイヅルが慈しんでいた仁綺の、いちばん優しくて温かい場所をそっと確かめてから、忍び込み、目を細めた。イヅルが胸に手をやると、仁綺は唇の間から呻くような声を漏らして、スグルをもっと奥へと誘った。
スグルが掴みなおしてつつんだ仁綺の手を、イヅルはスグルの上から、握って、仁綺の指を探した。
>次回予告_5.スグル
仁綺はスグルに言って、髪を短く切らせた。
》》》op / ed
今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。