砂漠、薔薇、硝子、楽園、 (3)
feat.松尾友雪 》》》詳細 序文
》》》2.
「すごく濡れてる。セックスする夢を見ていたね?」
>3.ニキ
仁綺は「自分には実現しない予知」を気にせずに生活しようと、一応は努力した。けれども結局、それから逃れるには現実から逃れなければならず、現実から逃れるのは、賢明で冷静な仁綺にとってはとても、難しいことだった。
仁綺が喫茶室で座っている。嫌な予感がする。仁綺はテーブルに置いたペンを見つめる。
「それ」が来る。
仁綺は平常心を保とうとする。仁綺は、隣に座る中年男性がそのペンを掴み取って、仁綺の脳天に突き立てる、強すぎる予感と戦いながら、平静を装って座り続ける。
座り続ける。
仁綺は知っているからだ。仁綺には、何も起きない。
帰って、耐えきれなくなり、ニュースを開くと、どこかの喫茶室で隣に座る中年男性の手によって、ボールペンを脳天に突き立てられた女性がいたことがわかる。
向こうから歩きタバコをして歩いている老人に、すれ違いざまにタバコを押し当てられる…エレベーターに一緒に乗った青年に刺される…ドアに指を挟んで骨折する…振り返ると車がすぐそこにいる…後ろから蹴り落とされ、階段を転がり落ちる…車に押し込められて両脛を金槌で潰される…仁綺は、何も調べなくなった。調べて出てきても、出てこなくても、仁綺には「何も起こっていない」し、仁綺には「何もできない」からだ。仁綺は、可能性について思い至っているだけで、そのうちのいくつかが実際に起こっているだけだ。仁綺は想像しているだけ。仁綺の想像がたまに、当たるだけ…。
正気を…もし、仁綺に正気があるならだ…保つには、無視するしかなかった。
苦痛と悪意に満ち溢れているのは、世界ではない、仁綺の想像力だ。
仁綺はふさぎこんだ。
急に自分で自分を抱きしめて動けなくなったりもしたし、ひどいときには、失神することもあった。普通の生活が営めなくても仁綺にはどうにか、問題がなかった。なぜなら、仁綺は「天童」だったからだ。仁綺は実験室から出ない人生を選び、そして、実験室の暗がりに飲み込まれるように、「いなくなった」。仁綺は愛され、恐れられ、保護され、隠蔽された。表向きに発表できる仁綺の論文は、予算獲得を本業とする花形「研究者」が、自分の名前で発表した。研究所はそのエビデンスを自前の零細研究者たちに取らせ、「共同」研究者として彼らを世に出すともに、花形「研究者」には仁綺のための研究資金を集めて回らせた。仁綺はいつも、実験室にいた。仁綺の着想と研究が研究所にとって貴重になればなるほど、仁綺には自由がなくなった。けれども、生活の乱雑さとは無縁な、いつも同じものがあり、同じ人がいて、同じことに打ち込めるその環境は、変化に敏感すぎる自分の「想像力」で苦しむ仁綺には、自由よりも先に、なくてはならないものだった。
研究所の一般スタッフにとっての仁綺は、研究所のパトロンが趣味で存続させているらしい怪しげな植物学研究に従事する、仁綺とは違う名前をした、若手研究者だった。研究所の、「機密に関わる事業」に関与する権限のない人間のなかには、名前の違う、怪しげな植物学者としての仁綺を見かける者はあっても、免疫学者としての幣原仁綺が何をしているかを知る者は、なかった。
仁綺は「機密に関わる」素晴らしい結果も、恐ろしい結果も出した。仁綺は多くの人々を地獄の苦しみから救い出し、同時に、多くの人々を地獄の苦しみに突き落とした。仁綺は、尽力した。何千人もの奇妙な死にかたをする人々を救う仁綺のために、何千匹ものラットが奇妙な死にかたをし、何千人もの人々が激しい痛みを嘆かずに暮らせるようにする仁綺のために、何千匹ものウサギが激しい痛みに苦しんだ。仁綺はある風土病の原因を突き止めて、これからその土地に生まれてくるだろう何万人もの子どもたちに、その病を知らない人生を与えるはずだった。けれども仁綺が見つけた特殊な解決法は、何万羽もの、美しい声をした美しい小鳥たちの生活を脅かしただけでは、済まなかった。死んでしまっては何の役にも立たない小鳥たちの死骸が、藁にも縋る思いの、よく似た病に冒された大人たちに高値で流れるようになり、小鳥たちを捕り合う密猟者たちの命と、それを食い止めようとする人々の命を奪った。子どもたちは治安の悪くなったその土地で相変わらず、病に冒され続け、自分たちの病を治すはずの小鳥を殺して、治るはずのない病を抱えた大人に向けて、それを売っていた。
仁綺はときどき、細菌を「有意に」変異させた。ある細菌は暗殺手段として、研究所の資金繰りのために密かに売り出された。ある細菌は、解毒薬が開発されるまでは絶対に封印を解いてはならない類の、劇毒薬の原料になった。ある細菌は、仁綺の監督官によって闇に葬られ、そのために、監督官が闇に葬られた。仁綺が「消える」ことを選んだ時から何年も、仁綺の心を悲しみから守り、支え、慰め、癒し、励ましてきた、その監督官はいつからか、細菌が病を完治させることで患者がいなくなると困る製薬会社からの、産業スパイになっていた。
仁綺は、悲しんだ。
ある日、仁綺はもう一度、「いなくなった」。仁綺の居場所を知っているのは世界でただ二人、雨咲イヅルと雨咲スグルだけになり、仁綺は気絶するまでセックスするようになり、気絶していない時は雨咲イヅルの「問題」に没頭するか、雨咲スグルの「内職」を虚心に手伝って過ごすようになった。
仁綺はスグルに、打ち明け話をした。仁綺を連れ出す前から研究所のシステムに侵入し、そのついでに仁綺の医療カルテを盗み見ていたというスグルにはもはや、くだくだしい説明は要らないようだったけれども、とにかく、仁綺にしてみれば、立派に、打ち明け話だった。
「君は、その『誰か』を救えると思うことはないの?」
スグルは判断のない、静かな声音で仁綺に尋ねた。
「私は、沢山の人に生命と人生とをプレゼントしたはず。その意味では、救っただけでなく、今も救っているし、未来永劫、救い続けるかもしれない」
「とはいえ、いまこの瞬間にも、君の『予知』どおりに死んだり怪我をしたりしている人がいるわけだろ」
「いないかもしれないよ。『予知』の存在は推測だし、なにより、経験論に尽きる。だいたい、私はちょっとおかしいところがある。私が勝手に時間を前後させて記憶してきたのかもしれない」
仁綺はぽつりぽつりと、話していた。スグルは仁綺の話を、遮らずに聞いた。
「想像力は誰にでもある。想像力があるだけじゃ、誰にも、誰も、救えないよ。もちろん私にも」
スグルは二度と、同じ質問をしなかった。
仁綺は、イヅルにも同じ話をしてみた。イヅルは仁綺を抱きしめて、はらはらと涙を流し、仁綺と夜明けまで、セックスした。
>次回予告_4.イヅル
雨咲ルリにとって、雨咲マヤの「生き写し」のみが、「雨咲イヅル」だった。
》》》op / ed
今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。