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春を謳う鯨 ①

俺さ…あんまりよくなかったでしょ。

体が密着しないように、ふんわりと布団ごと、鈴香を抱きしめて、これ以上ないほど幸せそうに微笑みかけた奏太の、けれども、声だけはひどく、落ち着いていた。奏太を見返して、鈴香は黙りこんでしまった。

なんていうか、思ったほど、よくなかったでしょ。なんか…ごめんね? 気遣ってくれてたよね、気まずかったわー。次からは、合わせないでいいからね…? 適当に、天井でも見てて。ね。

…ええと…。

第一に、「思ったほど」の基準がよくわからないし(鈴香はもともと、それほど感度がいいほうではないと思う)、第ニに奏太がそう言うに至った経緯として、複数の女性との、同じよう(に、感想に困るよう)な性交渉を経ていることが明らかで、鈴香はそれに対して何も思わないわけではないし、第三に「気まずかった」ってそれはまあ、ちょっと面白いとしても、鈴香はさっきのセックスにそういう間抜けな、面白い感じは求めていなかった。第四に「次」ってこのあとすぐなのかそれとも来週なのか来月なのか? そのあいだにも奏太には「複数の女性との性交渉」(鈴香は自分で推論した割に、いまいち現実感がなかった。奏太が…?)が、ありうるんだろうか? 第五に…なにをどう考えれば奏太は、「適当に、天井でも見」るようなセックスを、それでも鈴香がしたいと思うと、思うんだろう?

鈴香はそういう…感想というか、思考というか、発想というか、とにかく、なんて言っていいかわからないけれども鈴香にしか見えない、鈴香の心の動きが全部、奏太に見えていないとしたら、いったい奏太の目にはどんな「大村鈴香」が映っているんだろうと、なにやら、そう、むしろ自分が、とても新しい生き物のように感じられた。鈴香は…5年、同じチームで働いていて…ぬぼーっとした部類に入る、背が高めで太ってないくらいしか取り柄がない、いまは鈴香が上司をしているこの同期と、なぜか金曜の深夜、「くだらない」に限りなく近い、つまらないセックスのすえに裸でベッドの中にいて、布団にくるまれて、ぎこちない仕草で優しく髪を整えられている。鈴香は、目の前の男ではない男のせいで泣き腫らした目をしていて…そうだ。問題はよりいっそう、面倒になりこそすれ、一切、解決していない。

やー、よく言われるんだわー。ほら男友達にさ、恋愛相談とかして、したらふた言めには、中山はクッションじゃーん、人間と恋愛する夢なんか、見てんじゃねーよ、って。ね。自分で言うのもなんだけど、俺のことはそういうもんだと思ったほうが、納得いくんです。うん。そう思うとまあ、これくらいでもね。ね。

男友達…恋愛相談? なんの相談をするというのだろう? ううん、奏太だってもう27だ、打ち明けたい恋のひとつやふたつ…。

すず。すずね自分で思ってるよか、ダダ漏れだからさ。そこがいいんだけどまあ、そんなに、顔に出さないで。虫と呼ばれて、中山くんはちょっと傷ついてます。

な、…虫って。

奏太の行き過ぎた自虐に困惑している鈴香に、奏太は目を細めて微笑みかけて、鈴香の顔を覗き込んだ。

するよ。恋愛。でも、叶わないの。

それって…。

私の話? それとも…? とは、訊けなかった。今日…鈴香は泣いて、奏太は抱きしめた。鈴香が奏太に気づいて奏太に触って、気にしないでって言った奏太に、鈴香が、いいよ、ちょっとは気が紛れるかもって言った。余りにも面白みのない、短くも長くもない、山場のない無言のセックスと、いつのまに食べてたんだろう、ミンティアだかフリスクだかの味のする、いまいち馴染めない、奏太の細い舌。

なんつーかなぁ。ほら、すずも結局、やらかしてんでしょ。俺ね結構、経験はあるのよ。薄ーく、浅ーく、それなりに。でもさ、すずだって結局、…や、自分から言うほどには、自分にまだ、諦めついてないな。

奏太は起き上がると、ティッシュを3、4枚抜いてゴムを丸めいれて、前を隠したまま後じさりに、部屋の向こう側に向かった。

え、…な、なに…?

ん? おしり、見られなくないー。さっき、男らしくパンツポイしたら、飛びすぎちゃった。

そっか…。

奏太はいそいそとボクサーパンツに足を通してから、言っとくけど、すずの下着は意外にもきちんと丸めて足元に置いてあるかんね。中山的配慮。と、鈴香の下を指差した。

うっわ湿度えげつねー。ラグやられた…あーあ。

奏太は台所の取手にかけてあったタオルを取ってペットボトルを拭いて、しゃがんだまま一口飲んだ。

…やっぱりさあ。人生には、トラップがあってさ、おっと! って時あるじゃん、そういうとき、うわーもうだめ、倒れて地面当たる! ってときにさ、ん…? 痛くねーな…? みたいなね。えっ、こんなとこにクッションあったんだラッキー、みたいなね。

…。

俺はまあ、男の話、聞くの、好きだよ。女子の考えがわかるのも、面白いしさ。お前それはちげーだろってときもあるし、ひっでーわいまこの瞬間に撤退しとけ、ってときもある。あとほら、聞いてるとわかるんだよね。なんで俺、別れたいって言われたんだろうとか、なんで俺、付き合えないんだろうとか。

虫のくせに、とまではいかなかったけれど、奏太のくせに、なに言ってんの男みたいなこと。と、鈴香は思ってしまった。楢崎くんとは比べようもない、奏太なんて鈴香が知らない大学卒で、いつも少し不手際で、何県かもわからない、鈴香が知らない村の出身で、目つきも歯並びも悪いし、意外に肌が綺麗でびっくりしたけど、なんだか全体的にうっすら毛が濃くて、粗雑な感じの盲腸の手術痕があるし、話す声に時々ピヨピヨした妙な音が混じるのも気になる。さっき気まずくてなんとなくつけたテレビで、タレントが言っていた「人はひとりでは生きられない」にじーんとして、俺この言葉一生覚えとこう((?!)という表現はこういう時の鈴香の気持ちのためにあるんだろう)、なんて言っていたし、部屋のスタイルは戦隊ヒーローのホワイトみたいな力みがあって、安い香水みたいな匂いがする。広めのところを選んで清潔にしてるのは認めるにしても、住人がどう工夫したところで、築20年オーバーの安アパートだ。いまどき混合栓なんて。よく見ると、高校だか大学だかの集合写真が飾られてあって、さらに言えば、しかも、いけてない。鈴香はこういういちいちに、鈴香は、楢崎くんは、鈴香は、楢崎くんは、って、考えなきゃいけなくて、なのにいま、楢崎くんじゃなくて奏太といる自分に、自分はこっちの世界に属する人間かもしれないって思っていて、思っている自分に、ぞっとするのだ。鈴香の感覚は全身で、こっちじゃない、こっちはだめって、赤い警告灯を、ちかちかさせている。

奏太はベッドに入って、肘を立てた手で頭を支えて鈴香のほうを向き、鈴香にかかった掛布団の上に、もう片方の手を置きかけて、涙腫れした鈴香の瞼を、人差し指の背で触った。

無防備ー。あー俺、すずとこんな長い時間一緒にいんの、初めてだなぁ。

そうだね…仕事終わると私、すぐ帰っちゃうから…。

そう、少しでも早く帰って…楢崎くんに、きちんとしたご飯を用意して、笑って待ってないと、楢崎くんに不機嫌な顔をさせてしまう…ううん、鈴香が勝手にやっていることだ。楢崎くんの気に入らなければ、やっぱり合わないかもねって言って、楢崎くんが汚いものでも見たかのように、心を閉ざしてしまう、それだけ…。

「俺は理想の彼女を求めてるわけじゃないんだよ。ただ、努力しない人間とは、やっていけない。わかるだろ」。

沈黙が…流れたけれど、奏太はそれを無理には、破らなかった。鈴香は目を伏せて、布団の生地をじっと見ていた。そのうちに、外の通りを誰かが、騒がしく通り過ぎた。はいっ、ジャスパー!ジャスパー! なあジャスパー!おまえほんといいやつな。なー。やめてください冷たい!うるせーぞ深夜です、住宅街ですよーぐはは。おらー次行くぞー。

奏太と鈴香は見つめあった。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。