見出し画像

春を謳う鯨 ②

◆◇◇◇   ①   ◇◇◇◆

沈黙が…流れたけれど、奏太はそれを無理には、破らなかった。鈴香は目を伏せて、布団の生地をじっと見ていた。そのうちに、外の通りを誰かが、騒がしく通り過ぎた。はいっ、ジャスパー!ジャスパー! なあジャスパー!おまえほんといいやつな。なー。やめてください冷たい!うるせーぞ深夜です、住宅街ですよーぐはは。おらー次行くぞー。

奏太と鈴香は見つめあった。


◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆

-----------------------------------

…盛り上がってる、ね。

奴ら、近所のカラオケボックスの常連なんだよね。親玉はケンさんというらしい。あと、ジャスパー、最近「女になった」らしい。こないだお祝いしてた。男から女になったのか、女の子から女になったのか、それともなにかのたとえなのかは、未確認。そこに公園あるんだけどさ、花火打って、警察来てた。

わ、うるさー…。

鈴香はくすりと笑って、笑いながら、けれど、こんなどうでもいい話…と、虚しくなった。一生関わらない人たち。聞かなくても、なんにも損しない話。覚えなくてもいい色々なこと。忘れても、なんの変化も起きないこと。楽しそうに話す奏太。どうでもいいのに、相手はしなければいけない、さまざまのこと。鈴香はこういう「どうでもいい」に埋もれて、沈んでしまいそうだった。ここは鈴香の世界から、なにもかも遠い。なにをしても、なにを話しても、鈴香は…。鈴香は、じゃあ、なにをすれば…?

奏太はためらいながら、じわじわ手を伸ばして、鈴香をまた、抱きしめた。今度は少し強く。

大丈夫だよ。ね。

うん…。

鈴香はまだ、これみよがしに楢崎くんの家の本棚に突っ込まれていた、指輪のカタログを思い出していた。さっき奏太の腕のなかに、涙と一緒にこぼれおちた、自分の言葉が、いまはひんやりと、鈴香の心を伝い落ちている。「別れるなら…今しかないのに、足が動かないの。私、別れるのが、怖い…」。そう、見つからない何かを探すには、鈴香にはもう、時間がない…たぶん、楢崎くんは鈴香のことが本当に好きで、この先、楢崎くんくらい鈴香のことを好きになってくれる、楢崎くんくらい色々なものを持った人を探すのは、鈴香にはたぶん、とても、難しいのだ…。

言葉に出して初めて鈴香は、袋小路に入ったのか、岐路に立っているのかわからなくなっている自分を、見つけたのだった。…このまま鈴香は…誰からも、鈴香がそうしてほしいように抱きしめてもらえないまま、鈴香がそうしたいように笑わないまま、人生を閉じてしまうのだろうか…? いつも、どこかがうまくいかないまま、楢崎くんの合格点を取れているか、怯えて…したいことはキスひとつでさえ、拒絶されないか怯えながら…それは、愛のある人生…? 楢崎くんはとても…鈴香を好きなんだと思う。でも…このまま、何十年も、一緒にいたい…? 「他に代わりがいない」以外の全てを、色々なことを、一緒に乗り越えていける…?

あのさ、大事なのはさ、自分を大事にすることでしょ。

黙り込んだ鈴香を見かねたというように、奏太は不意に語気を強めてから、あ、いや俺はあーせーこーせー、言う気ないんだよでもさ、と顎をさすって、まずお前のヒゲ剃れっつう話だしな。な。と、力なく笑った。

すずがその彼氏とどうとかはさー…そもそも知らない人だかんなー、良いか悪いかもわからんし、うん。強いて言えば、たぶんあれだ、スペックすげー高くて、俺とは違う景色見てるんだろうなって、くらいしか、いえない。でもさ…今日みたいに、すずが頑張れそうにないって泣いてたら…大丈夫だよ、すずはもう十分頑張ってる、すずは何にも傷ついてないって、言って慰めるくらいの甲斐性は俺、あるよ…? なんもできねー、つか、すずの性欲を満たすことさえ、きっと、できないんだけどさ、抱きしめて、すずの気持ちを少しくらいなら、落ち着かせてあげることはできる。…頑張るにしても、やめるにしても…疲れてんならまあ、ちょっと休んでいけばって言えるくらいにはいつも体、空いてるからね。所詮の中山くんですから。ね、もうダメだと思うけど諦めたくないとき。誰かいればいいのにいないとき。ね。そういう時のさ、俺はすずのクッションになるよ。あんまり、ふかふかしてねーから、おおっぴらに転んでかかると怪我すっけどな、はは。

…。

反応に困って黙っている鈴香を見て、奏太も困ったような顔つきで、よくわからない首の回し方をしながら、ボソボソ呟いた。な、それで、いいんだよ。たまに、休みにおいで。ね。奏太は言い終わると、またあの、妙に幸せそうな微笑みを見せた。

そうか、これが奏太の、作り笑いなんだな、と、鈴香は思った。

ねえ…付き合いたいとかじゃなくて? …脅さない? え、まさかとは思うけど動画撮ってたりしてない…?

ねーよねーよ。どんなクズだよ。

奏太は吹き出して、それから、鈴香の鞄にささっていたペットボトルを、ベッドから落ちかかりながらどうにか抜いて、鈴香に渡した。

すずが…付き合いたいのは俺じゃ、ないでしょ。俺が、すずに付き合ってあげたいだけなんだ。付き合うって言っても男女交際って意味じゃなくてさ、なんていうか、袖触れ合うも他生の縁、的な? ま、それは気にしないで。

都合のいい男になるってこと?

ば、っかおまえ、それほど都合よかねーから困ってんだろ。セとフとレで表現するにはさー…な、俺もそこまでそういう情熱ねえし、もっとほら、そういう都合のいい男って…なんかこう…車持ってたり金持ってたりして、…それか、せ、セクシー? だろ。

今度は鈴香が吹き出す番だった。

いやいやいや、俺のイメージが貧困なんかも知んねーけど、あながち間違ってもねーべ? つまり、中山くんにはそういう、男を男たらしめるようなポイントないからね。中山くん、ヒトじゃねーもん。モノだもん。クッションだもん。しかもソファとかに置いてあるやつ。長バナシしてると抱きしめちゃうけど、別に、なくてもいいやつ。

鈴香は奏太をじっと見つめた。奏太はきまり悪そうにうっすら笑いながら、けれど、鈴香の顔をじっと、見つめ返した。

こんな時に…。

こんな時に?

こんな時に、気づくものなんだね、きっと私…あんまり思いやり、ないほうなんだ…。

そーでもねーよ。

…。私…中山がこんな優しい人だと思わなかった。今日は、ありがと…。

鈴香は心の底のわだかまりがふと、ほどけて、気持ちが楽になるのを感じた。枕にファンデーションがつかないように、腕を当ててうつ伏せになった鈴香の背中に、奏太は手を置いた。

はは。かーわいいね、すず。俺はすずといる時間、好きよ。さ、て、と…寝るかね。



部屋の電気を、落としたあとも、奏太は時折、もぞもぞ動いて、落ち着かなかった。

寝れない…?

んー。明日は「悪かったごめん」の連絡あったら、午後、行くんでしょ? 起きがけはやっぱ倫理的につうか、気分的に、できないから、いま、もっかいできればなーって、思っちゃってる。

…。

あー…電気暗くてよかったわー。いま、すずの顔見たら絶対ヘコむ。や、思ってるだけで実行しないのが、クッション中山のセールスポイントなの。むしろごめん。いいんだよ。気にしないで、ほんと。

鈴香は、心の全面にせわしなく明滅する警告灯の赤色に圧倒された。激しい違和感と、うっすらした嫌悪感と、戦いながらも、奏太の薄い唇に自分の唇を押し当てた。

こういう理由で目を閉じるキスも、あるんだな、と、思った。


〉》》〉③ 〉》》〉


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。