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地域公共交通の「議論」の含意について

NHKが、「バス事業120年 2030年度に運転手3万6000人不足か 背景と今後は」と題した報道をしていました。

バスの人手不足は大変大きな問題ですが、記事の締めくくりが気になったので今回はその議論をしてみます。

バスはあって当たり前と考えがちですが、人手不足は事業の存続にも関わる深刻な問題です。
公共交通機関を今後どうしていくのか、行政や私たち利用者を含めてもっと議論しなければならない時期にきています。

NHKニュース「バス事業120年 2030年度に運転手3万6000人不足か 背景と今後は」(2023年9月20日)

国・自治体の「地域公共交通」の世界では、議論をすることが極めて重視される特徴があります。2022年の法改正では、地域公共交通活性化再生法の目的に「連携と協議」が新たに追加されたほどです。地域公共交通が危機に瀕しているのは議論が足りないせい、地域公共交通を改善・活性化するために必要なのは当事者の連携と協議――というわけです。

なお、地域公共交通の分野でいう「議論」「連携と協議」は、個別のサービスの存続のあり方や個別的な路線・時刻・運賃設定について議論して定めるという含意があります。これに従い、以下、個別のサービスの改善のために関係者が議論することを指して「議論」と述べます。多くの場合、「地域の関係者の努力」と読み替えることも可能です。

地域公共交通が存続できなくなって困るのは、それが生活に不可欠なサービスの一つだからです。では、我々の周りにある地域公共交通以外の生活に不可欠なサービスも「議論」を通して確保されているのでしょうか。

そんなことはないはずです。例えば、最もラクなパターンとしては、市場メカニズムを通して自動的にサービスが確保されている場合でしょう。スーパーや日用品店が該当します。

市場で解決しない場合でも、政治的に解決するという手法もあります。個々の住民や個々の地域が我慢したり頑張ったりしないで済むように、政府機構を使ってまとめて解決します。電気は経産省が旧大手電力に供給義務を課すことにより、全国津々浦々のネットワークが確保されています。義務教育は、文科省が全国最低限の学校と教師の配置基準を定めるとともに、それに必要な経費を自治体に与えることによって確保されています。

議論というのは手間のかかるものです。人間や社会の資源は有限です。社会的地位が低く発言力が弱い人や、困窮して余裕のない人もいますが、「議論」という解決策にはこうした人たちが排除されやすいという問題もあります。

議論することが有効な場面が多く存在することは間違いありません。しかし、どのような分野であっても、議論しないで同じパフォーマンスが発揮できるのであれば、それに越したことはないのではないでしょうか。
あるいはこのように言うこともできるでしょう。議論しないで済む領域が増えれば、同じ公共交通の中でもより有意義な分野に議論のリソースを割けるのではないでしょうか。

議論は唯一の手段ではなく、それが役に立つ場面で採用すべき手段の一つである――。このように、「手段の一つとしての『議論』」という考え方が必要だと思います。

その点、冒頭で述べたように、昨今の国・自治体の「地域公共交通」の領域では、「議論こそが解決策」「議論にあらずんば正解にあらず」といった「議論ありき」の風潮が強くあります。マスコミの論調も同様です。
しかし、「議論」はあくまで一手段であり、議論しないで済む方法を、もっと言えば、個別の自治体や地域住民の頑張りに依存せずに「仕組みで解決する方法」を常に意識しておくことが、国や自治体、マスコミには求められるでしょう。繰り返しにはなりますが、他の政策領域では「個別の頑張り」ではなく「仕組みで解決」することが主流であることを思い起こす必要があります。

「議論」が重視されてきた理由

もっとも、「地域公共交通」の領域で「議論」が解決策として重視されてきたことは、まったく理由のないことではありません。

2000年代前半までの「コミュニティバスブーム」の中では、往々にして政治的イニシアティブと税負担のもとで、過大で非効率なサービスを設定することが横行しました。地域の実情から離れた非効率なサービスを政治的ポーズとして供給することは好ましい状態ではありません。このことへの処方箋として提案されたのが、地域主導の「議論」「連携と協議」ということができます。

しかし、この時に「地域公共交通」の中に含まれる異なるタイプのサービスが十分に区別されなかったことが、「議論」の必要性をめぐる議論をミスリードしたきらいがあります。

  1. 個別的な議論抜きに、社会福祉的サービスとして維持すべき基礎的なサービス(過疎地の生活バス等)

  2. 上から与えられるものではなく、必要とする地域が議論と努力をして確保するべき上乗せサービス(都市郊外コミュニティバス)

ここ15年の「地域公共交通」の領域の政策論議は、基本的に、2番の領域の都市郊外の非効率なコミュニティバスに着目し、そこから「議論が不足している」という問題を見出し、「議論」を促すことを処方箋として描き出すという構図に基づいています。こうした中で、個別の議論抜きに「国として」「道府県として」「市町村として」どのように1番の領域の基礎的サービスを維持するかという政策論議はあまり深まらなかったと感じます。

「地域公共交通」には、3番目の領域として、都市全域の交通問題を解決するために増便する「都市の幹線公共交通」もあります(鉄道、都市路線バス)。影響する範囲が広く、投資額も大きいため、個別地域の議論や個別当事者間の協議ではなく、まさしく首長や議会の「政治的な意思決定」の出番です。しかし、地域公共交通政策がこの間、2番の領域に着目した「議論」をほとんど唯一解としてきたために、政治的イニシアティブで都市公共交通強化に取り組むという方向性は意識されづらくなっているのが現状です。

「地域公共交通」が潜在的に2番の領域に着目してきた経緯のもとで、コミュニティバスブームへの反省から自治体サイドによる「政治的な意思決定」を好まず、既得権益者や有識者を集めた会議体での議論を好んできたことの副作用もあるでしょう。

地域の問題解決の本流は「政治的に解決すること」であり、首長選挙や議会制度を通して公論(民意)が集約されます。「地域公共交通」の世界ではこれを「政治(的なバス)路線」として否定するのですが、その代わりに用意される会議体は許可権益を持つ私企業や当該自治体の外から来た行政実務家(=当該自治体の地域課題について政治的プレッシャーを限りなく浴びにくい人たち)が多数含まれるものであり、それを本来の議会制度よりもパフォーマンスよく民主的に運営することは大変な努力が必要です。

さらにもう一つの背景を挙げるなら、「現場で(必要なら議論もして)うまくやること」と「現場が(議論を必ずしもやらなくても)うまくいくように制度設計すること」とが国レベルの政策論議の中で意識的には区別されていないことも影響しているかもしれません。

「共創」という新たなキーワードも出現していますが、それも基本的にこれらの延長線上にあります。

「たかが交通のためにそんなにみんな頑張らなくていいよ」

ITの世界では、「頑張らなくて済むように頑張る」という考え方があるそうです。事実、「たかが交通のためにそんなにみんな頑張らなくていいよ」という提起も行われています。

個別的な頑張りも大事ですが、仕組みによる解決も常に考えるべきではないでしょうか。

なお、本記事のより詳しい議論を下記にお示ししています。


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