中国人のハンス、つまらない美術館

4月12日金曜日。午前の授業が終わり一時帰宅した。今日は4時から近くの美術館に行くことになっている。学校のイベントとして張り出されていたので、美術館という響きだけで参加のサインをしたのだ。


4時前に集合場所の学校前に行くとまだ誰も来ていなかった。イギリスで集合時間に移動を開始できることはまずない。集合時間の数分後に着くことが流儀とされているかのように誰もかれもが守ろうとしない。流石に少し遅かったか、と急ぎ足で集合場所に向かってもそれが報われることはない。彼らは僕の予想を上回る。僕が遅れれば遅れるほど彼らもそれに合わせて遅れようとする。


次に来たのは中国人のハンスという男だった。彼とは昼休憩の時に少し話した程度だったが、彼の方はなぜか僕を気に入ってくれたようだった。学校で初めてハンスを見たときはアジア人男性がいる妙な敵対意識が芽生えた。僕が留学先の一つにここアバディーンを選んだ理由は生きているだけで唯一無二になりたかったからだ。しかもハンスを好きになれなかったもう一つの理由に、彼が内外ともに奇抜であったことがある。彼はいつも頭にバンダナを巻き派手な水色のダウンを着ていた。バンダナを私服としてつける人はイギリスでもそういない。

それに彼は、アジア人にあるまじき社交性を持ち合わせていた。声が大きくどこにいても彼が今話しているなと分かる。発音は独特でネイティブから見ると少し奇妙ではあるだろうが、それもチャーミングという範疇に収まっている。何より僕よりも格段に英語ができる。驚いたのはリスニング能力だ。ハンスが誰かと会話している時に耳をすませていると、彼は相手の英語を100%聞き取っている。僕がわからなかった内容も全て彼の耳にはクリアに聞こえている。


引率の講師が1人来た。背の低いがっちりとした女性で、強面で近づき難いタイプだ。エマという名前だ。「エマ」はイギリスで人気の女子名なのだろう。やはり今回もエマが日本で言うなにに当たるのだろうと考えざるを得ない。りょうこ、あんな、なつき、そんなとこだろうか?

「ハンスと・・・ヴァタ ね。今回はあなた達だけよ。では行きましょうか」

参加者は僕とハンスのみだった。あちらからしたらそんな美術館行っても仕方ないというスタンスなんだろうか。


美術館は学校の直線上500メートルくらいにあった。通行人はその美術館について興味を示さないようすだった。中にも人はほとんどおらず受付の人も僕らが中に入ることに意外と感じているように見えた。

この美術館ではアバディーンの歴史について多すぎない資料が展示されていた。僕の興味をひく作品はほとんどなかった。エマがつまらなさそうに一つ一つの説明文を読み上げていった。

放課後のイベント担当講師は、言うならばじゃんけんやくじといったネガティブな要素で決められているのだろうか?エマはこの時間を有意義に思っているようには見えない。アジア人2人をつまらない美術館に連れてつまらない展示物を説明する。

一方ハンスはこの美術館に関心を持っているようだった。エマが何か話すとその3倍くらいの分量を喋った。エマとハンスの会話のキャッチボールはほとんど完全に行われていた。僕はエマの言ったことを全て理解することはできない。大方こう言う文脈だろうと推測はできるが、推測している時間にまた次の長い文章がやってくる。ハンスはそれをリアルタイムで理解し同じ速度の英語で返していた。僕がこの美術館で得たのは同じアジア人であるのにこれほど会話力の差があると言う果てしない無力だった。黙っているわけにもいかないと要所で喋ってみるが、その時に2人が僕の英語を聞いていると思うと余計に閉塞的になった。


見学は40分ほどで終わった。狭い美術館だし、2人しかいないものだから一つの展示物に割く時間が短い。エマはやっと任務を遂行し終えるとこれからのプライベートの時間に心を躍らせているように見えた。バンダナ眼鏡の中国人とボサボサ頭の日本人を連れて歩くのは目立つ。エマがこれで解散ねと言うと僕は平静を装いながら「ありがとう、また」と言った。これで今週の授業は終わったのだ。とにかく家に帰ってゆっくりしよう。

ハンスが言った。

「ねえ、今から時間ある?」

僕が一番恐れていた事態が起きた。