「時間が飛んでいく薬」・・・ヒーリングと西洋医学との折衷についての一例
若い頃は、西洋医学に頼らずに、気功やヒーリング(いまやっているものの原型)のみで調子を整えることに、どこか達成感を抱いているようなところがあった。
それは身体的な面も、精神的な面でもだったのだが、次第にそのやり方には限界を覚えるようになった。
一つの要因としては、『念』のようなものに頼りすぎると、それが身体的な技法や、現実的な作業をきちんと伴ったものだとしても、どこかでバランスが崩れるような感覚が、私の中から拭い切れなかったからだ。
それは人それぞれ、自身の個性に合わせてバランスを取ったり、選択をしたり、決断をすればよいことで、誰にでも合う絶対の正解というものはないのではなかろうか。
私の場合は、何だかんだと流されながらも、自分が落ち着くバランスのようなものが、ある程度は、ぼんやりと出来てきているようだ。
その一例として、以下のような文章を書き置いておきたいと思う。
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数年前からだいぶ薬のお世話になっている。
若い頃は西洋医学にかなり強い不信を抱いていて、体調を崩しても頑として薬には頼らないでいたこともあったが、
次第に、その方針が自分にはあまり合わないことを感じ始め、西洋医学も徐々に受け入れられるようになってきた。
そして数年前に大きく体調を崩したときは、やはりメンタル系の服薬ということでかなり抵抗感があったのだが、観念して服薬を始めるとその改善の効果に驚いたものだった。
いまこうしてここに居られるのも、大げさではなく、そのときの主治医が服薬を戸惑う私に丁寧に寄り添ってくれたからだと思う。
そして今、減薬に取り組んで、やや苦労はしているが、そこも主治医やカウンセラーが寄り添って、共に歩んでくれているので、だいぶ安心感がある。
補助的に安定剤を時折活用するのだが(いわゆる頓服薬として)、回復期のそれは意外に小難しいところがあるのだと、このところ感じる。
キツイときに比べて少量でもよく効き、気持ちがリラックスして、自分が自分と向き合い過ぎてしんどくなるのを助けてくれるようなところもあるのだが、
からだを休めてるときは良いものの、日中にそれを使うかどうかは結構迷うし、飲んでみないと、飲んで良かったのかどうかが結局分からないことも多い。
いまの時期にどのぐらいが適当なのかは、しばらく試行錯誤してみるしかないのだが、日中はやはりなるべく飲まないのが無難ではあるようだ。(それでも飲んだ方が良さそうなときは、気をつけながら服用している。)
そして安定剤のもう一つの特徴というか、私にとって幾ばくかの感慨や不思議を覚えることは、安定剤を使うと「時間が飛んでいく」ような感覚を覚えることだ。
感覚が鋭くなりすぎてシンドイ思いをしているときに、確かに安定剤は私をそこから引き上げてくれる。
しかし、私はその間、自分と鋭く向き合うこともない。
それによって、自分を鋭く追い詰めることなく、守られてはいる。
しかしまた、その時間は、もしかしたらシンドイけれど自分と向き合うチャンスでもあったのかもしれない。
しかしながら、それはマイナス面の方が大きく、トータルで見れば、まずはいったんそこから離れることが、私や私の心身には必要だったのだろう。
ただ、ふと振り返るとき、その間の時間が、まるで「飛んでいった」ように、どこかへ消えてなくなっていることも事実だ。
あるいは、その分「無事に過ごすことができた」と、時間のことはあまり気にしない方が正解なのかもしれない。
とどの詰まり、私は過ぎ去った時間をいつまでも気にしている訳でもないのだが、服薬によって少し楽になったあとに、ほんの少しの寂寞感を感じながら、まるで私の人生が早送りされたような気持ちになったりしながら、少しだけ感傷的になっているだけなのである。
症状のひどかった時から見れば、実にぜいたくな話ではある。