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『欅坂46』から読む-デモクラシーと気候正義 第四話

第四話「不協和音」と闘う大正デモクラシー②

・女性解放、社会主義、反差別

 1920年、平塚らいてう、市川房枝らが「新婦人協会」を設立する。彼女らは女性の政治活動の自由、社会的地位の向上を目指し、男性とも協力しながら政治・社会改革の気運を高めていった[1]。
 らいてうは、青鞜社は「一種の精神運動」であり「社会運動とまでは進んでいなかった」と語り、社会の根本的な改革を唱えるようになっていた。会の結成から二年間で、「治安警察法」で禁止されていた女性の「政治集会の自由」を認めさせることに成功している。

 一方、1921年には山川菊栄、伊藤野枝らが「赤瀾会」を立ち上げた。女性を「窮乏と無智と隷属とに沈淪せしめたる一切の圧制に対して、断固として宣戦を布告する」ものとして、社会主義を掲げた組織である。赤瀾は「赤い波Red Wave」を意味し、勢いを増していた社会主義運動に大きなうねりを呼び起こした。菊栄は、資本主義が女性を「家庭奴隷」「賃金奴隷」に貶めると主張し、それと徹底的に対立する姿勢を鮮明にしたのである。
 赤瀾Red Waveという看板からは、青鞜Blue stockingや新婦人協会への対抗意識がうかがえて面白い。階級の立場からの変革を重視した彼女らにとって、らいてうたちの運動はブルジョワ的で生ぬるいと思われたのだろう。

 翌1922年、京都で「全国水平社」が創立される。被差別部落の解放、差別問題の根本的解決を掲げたこの団体は、外からの「融和」ではなく被差別部落民自身の運動を重視した[2]。全国水平社の「綱領」には、「特殊部落民は部落民自身の行動によって絶対の解放を期す」とある。「特殊部落」はもともと政府の役人が使う差別用語だったのだが、これを当事者があえて用いることで、「受け身の被差別民」から「自ら解放を謳う主体」への転換を図ったのである。

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[図1]京都岡崎の石碑「全国水平社創立の地」

 水平社は全国の地域で次々と設立され、その数は240にまで上った。被差別部落民の主体意識を高めたこの運動は、真正面から差別との対決を誓って社会に新たな変化を呼び込んだのである。

・独立運動、関東大震災と虐殺

 1919年3月1日、朝鮮の人々はソウルのパゴタ公園に集って植民地からの独立を叫んだ。三・一独立運動である。
 学生、官吏、教師、商人、農夫などあらゆる階層が、老若男女問わず集合し行進したというこの運動は、ソウルや平壌をはじめ朝鮮全土で繰り広げられ「大日本帝国」への抵抗を示した[3]。日本政府は大規模に軍隊を派遣して運動の鎮圧を図り、朝鮮人の死者は七千五百、逮捕者は四万六千人に及んだ。運動の指導者のひとり、当時女子学生であった柳寛順は逮捕後も抵抗を続け、拷問にかけられ獄死したと伝えられてる。

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[図2]三・一独立運動の記念碑

 日本国内の新聞はこの運動を「暴動」と呼び、「鮮人」の「暴徒」という差別表現を憚ることなく用いた。だが朝鮮側の主張に耳を傾けようとした者がいなかったわけではない。吉野作造は、『中央公論』に寄せた「朝鮮の暴動について」の中で、朝鮮人は日本の支配を望んでいず、彼らの要求は不当なものではないと述べていた。また、こののちに生まれる「水平社」は朝鮮における反差別運動と連帯もしていた。

 「全国水平社創立」の翌1923年、マグニチュード7.9の地震が関東を襲った。直後には火災が発生し、三日間で東京の市街地の44%が全焼した。死者九万人、行方不明者一万三千人の大惨事であった。

 人々が混乱の渦中にあったそのとき、「朝鮮人が暴動を起こす」という流言が飛び交った。この事実無根のデマは、民衆だけでなく日本政府・警察・軍隊といった公権力が積極的に拡散させたものである[4]。東京の人々はデマを信じ込み、朝鮮人とみた者を竹槍や鳶口で虐殺していった。
 三・一独立運動以来、日本政府と主要メディアは朝鮮人=「テロリスト」というイメージを作り上げてきた。こうして人々の中で膨れ上がっていた朝鮮人への恐怖や差別感情が、地震による錯乱のなかで一挙に噴き出したのである。

 不条理に殺された朝鮮人の犠牲者は六千人を超えると言われている。また、アナキストの大杉栄と伊藤野枝夫妻や、労働運動家の平沢計七らも警察によって虐殺されている。
 この惨状を目の当たりにして、山川菊栄は「偏狭なる愛国主義」、「排他的な島国根性」により「あれほどの残虐」が行われたのだと、当時の日本人の民族差別と朝鮮人への暴力を激しく糾弾している[5]。

・女性のいない普通選挙

 1925年、普通選挙法が成立した。長年の民衆運動の末に、25歳以上の「帝国臣民たる男子」が一票の権利を獲得したのである。
 有権者の数は328万人から1240万に増え、『東京朝日新聞』は「国民の宿望」が実現したと論じた[6]。ただし、有権者はいまだ人口の20%に過ぎず、「貧困による公私の扶助を受くる者」など貧困にある人や、日本の植民地となっていた朝鮮・台湾籍の人々は除外された。

 そして、人口の半分を占める女性はいないことにされた
 この前年の1924年末には、市川房枝、久布白落実らにより「婦人参政権獲得期成同盟」が設立されていた。久布は「男女は人間として同一であり、ゆえに同等の権利をもつ」と宣言し、地方政治に参加するための「公民権」、政治結社を作る・加わるための「結社権」、そして女性の参政権の獲得を目標に掲げた[7]。このような本格的な女性参政権運動=日本の第一波フェミニズムの始動は、「新婦人協会」が女性の「集会の自由」を取り戻していたことの成果の表れであろう。

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[図3]犬養首相に参政権を訴える婦選同盟

 「女性のいない普通選挙」の成立に対し、「婦人参政権獲得期成同盟」は「婦選獲得同盟」と改称し、「少数の男子と共に、政治圏外に取り残された」女性の政治参加が「当然にして必要」であると強く抗議した。普選には「婦選」が欠かせないのだ、と。

 婦選獲得同盟の女性たちは、この後も公民権、結社権、参政権を政府に要求し続けた。1931年2月には公民権案が衆議院を通過し、女性の地方政治参加があと一歩のところとなった。
 だがその半年後の満州事変により、女性たちの運動は粉々に砕け散った。女性活動家の多くは、戦争に抗えなかったのである。

 1928年、山川菊栄は「フェミニズムの検討」においてこう予言していた。

今や第二の世界戦争の危機は刻々に切迫してきている。特にその危機が、支那問題を中心として極東の空に迫りつつあることは、何人の目にも明白である。この時にあたって「女性文化」論者たるフェミニストは、戦争を防止するためにどういう努力を払っているか。婦人の地位向上を主張する団体のうち、無産階級(賃金労働者)とともに世界戦争の危機へ導く出兵問題に対して抗議したものが一つでもあるだろうか。

 デモクラシーを求める日本の女性たちは、十五年後の終戦まで待たねばならなかったのだ。

<参考>

[1]折井美耶子『新婦人協会の研究』ドメス出版 2006
[2]秋定嘉和・朝治武編『近代日本と水平社』解放出版社 2002
[3]林慶植『朝鮮三・一独立運動』平凡社 1976
[4]藤野裕子『民衆暴力』中央公論新社 2020
[5]鈴木裕子「山川菊栄」江原由美子・金井淑子編『フェミニズムの名著50』平凡社 2002
[6]成田龍一『大正デモクラシー』岩波書店 2007
[7]進藤久美子「女性解放運動」筒井清忠編『大正史講義』筑摩書房 2021


  

 

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