隣の国に住んでいるごく普通の演劇人が語るどうでもいい話

はじめまして。キムです。

普段からはフィクションの話を書くことが多い私ですが、コロナの影響でもはやフィクションは現実になり、フィクションをフィクションとして書けなくなりました。

強いて言えば、歴史の関係あるドラマが始まる前に出てくる「これはあくまでもフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。」(大体の場合、ある意味で関係はありますね。)ていう文章のあのフィクションのことです。

私は、小さい頃から本が大好きな子でした。小学生のときからお母さんのIDを借りて(正確には盗んで)、オンラインコミュニティーであらゆるジャンルを超える文章を読だこともあります。そして15歳から本格的にモノを書き始め、韓国の芸術高校で現代詩を専攻し、卒業の前に詩人とし(大体の場合、ある意味で関係はありますね。)てデビューをしました。

19歳の時にたまたま手に入った『ゴドーを待ちながら』という戯曲を読んで一気にハマり、舞台上演のための物語にも興味を持ちはじめました。その後、最初に書いた戯曲が選ばれて劇作家としても活動することになりました。ここ数年の間は、幸いにいつくかの舞台を作り上げることができました。

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<ゴドーを待ちながら>初演の写真(1953)

2年間の日本留学を経て、私にとっては外国語である日本語でこうやって文章を書くようにもなりました。が、人生の半分を物書きの仕事で夢中になっていた私に、最近大事件が起きています。今までのどおり、フィクションを書くことができなくなったのです。個人的にも、今の情勢にも関係すると思いますが、なぜか書こうとすると手が止まってしまいます。

一体どういうことなんでしょうね。

フィクションというのは、英語でも fiction なのですが、要するに「虚構の話」です。しかし、全くこのように存在しない、そのようなものがたりではありません。バイブルの “Nothing new under the sun”(この世に新しきもの無し)ていう格言のように、その方法は違っていても、内容はそこまでは変わらないってことです。つまり、作家が語り手を通して、自分が言いたいことを遠回しに伝える表現のひとつっていうと分かりやすいですかね。

作家として私が、今まで書いてきてこととは、自分が「不条理」だと思っていたことを<演劇(戯曲)>という形を通して見せるという、私なりの意味が有る作業でした。「不条理」は目に見えない、しかしながら我々のもっとも近くに存在している本質だと信じていたからです。そして、そういった本質を日常の中で見逃している観客に向け、必死に発信することによって、私は人間の「不条理」を、人生そのものを伝えたかったです。ただそれだけだったのです。

ですが、今はもうそんなことを伝える時代ではなくなったということに気が付きました。

「不条理」が目に見える、しかももっともはっきり見えてる「ウイルス」という形で人類に訪れてきたのです。人間の力でどうにもならない、ただ単に待つことしかできない、それがいつ来るのか、実際来ることはできるのかも分からない、時間潰しの中で自殺を考えたり、人を傷つけたり、神様に祈って、すぐ寝落ちしたりする日々が、来てしまったのです。

これは私が今まで、誰よりも必死になって、みんなに伝えたかった話と深く繋がっています。ひとつ違うのは、これは我々の「日常」が失われ、すなわち「不条理」がその代わりになっているという、もしくは「不条理」とはそもそもそこにあったという事実にみんな気が付きはじめたのです。

こんな状況で私は、このままフィクションを続けて書くことなんて出来ないと判断しました。演劇を上演し続けることもひとつの方法かもしれませんが、また、演劇人としてのやるべきことがあるというの否定はしません。しかし、私は現実に目を向けて、その風景をしっかり残しておくべきだと感じました。

なので、キムヒジンは、しばらくフィクションが書けなくなった韓国人の作家です。

フィクション以外のものはなんでも書きます。(仕事を下さい。)韓国のことでも、演劇/舞踊/舞台のことでも、食べ物/海外/教育/YouTube(…)のことでも、それがなんでもフィクション以外なら書ける自信があります。

まあ、ずっとお家にいるので。

これからも応援よろしくお願いします!


果川(グァチョン)で、キムヒジン

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