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寛容と暴力と闇

病んでいる若者を見ると、羅生門の下で長年使えていた主人から暇を出され行く当てもなく、明日の暮らしをどうするかも決めかね、道端で飢え死にするか盗人になるか、頬にできたニキビを擦りながらぼんやりと雨やみを待っている若い下人の姿を思い浮かべてしまう。
飢え死にするか盗人になるか心のせめぎあい。
こんな世の中だから鬱病になる人が多い。抗うつ薬は医学の進歩で良い薬ができているらしいが、いくら鬱病の薬が進歩しても結局その場しのぎというか、さしあたっての効果はあるが鬱病そのものを根本的に治すものではない。鬱病にかかってしまう社会環境がある限り、心の病を抱えた人が減ることはない。
私も精神科へ半年かかったがやめてしまった。通うこと自体が苦痛。本当にこれでいいのか、本当に治るのかという猜疑心。診察室の前で順番を待つ間の苦痛。この苦痛があるために薬を飲んでも全く効かない。こうなると病院、医師、薬に対する不信感ばかりが膨らみ気分はますます塞いでいく一方で、周りに対する憎悪が、元々出ていた症状に取って代わられ、より危険な状態になったと感じ始め通院するのをやめた。生きることは辛いと今でも感じることはあるが、自傷したり、自殺したいなどと思った事はないのが幸いである。生きる欲の方が強い。
そりゃそうだ。一切れ98円の塩サバ喰って美味いと思ったり、面白いテレビを見ているとそう簡単に死ぬのはもったいない。
若者の悩みの殆どは時間の経過とともに解消されていくものだ。一途でありひたむきであればあるほど悩みは深くなっていく。真面目であればあるほど自分の失敗を責め、無力さを必要以上に感じてしまう事で新たな一歩を踏み出す前からその先を悲観し諦めてしまう。そういう悪循環によりうつ病にかかってしまう。私のようなジジイが、「時間が解決しれくれるんだよ」と言ったとしても、その声は立ち入ることのできない若さと言う領域にまで届くことはない。若者の脳は柔らかくて年寄りの脳は堅いなどと言われるが、実は逆なことが多い。若さゆえの一途でひたむきさは、年寄りの意地悪な目で見れば視野が狭いと言い換えることができるのだ。
一途でひたむきであるがゆえに周りが見えなくなり、自分の殻に閉じこもり何も聞こえなくなる。悩みはどんどん深くなっていく。
年寄りの抱える悩みと若者の抱える悩みは違う。年齢差と言う断層。この壁は今も昔も、きっと未来永劫変わらない。
ただ、今の若者が可哀想だなと思うのはネットの存在。
単なる遊び心なのか錯覚した正義感なのか、弱みに付け込んで容赦なく叩く風潮。厄介なのは叩いている方に悪気がないこと。寛容さのない文言をぶつける。何を言っても許されるある意味寛容なネット世界は暴力的だ。失敗をしても立ち直る道を用意してくれる実社会に対して、ネットの世界だけで生きている者たちは一度でも失敗をした相手を決して許さない狭量な世界でもある。これがだんだんと実社会にも蔓延しつつあるから厄介だ。


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