2023年4月2日(日) その先にはただ考え続けることだけがあるのだと

 最近前みたいな自分のアイデンティティと一体となるような趣味がなくなったので、図書館で自然とこんな本を手に取っていました。


 面白かったかどうかを判断する前に、というかうまく判断できないくらい、いい意味で煙に巻かれたような読後感でした。


 タイトルからして、退屈はこう楽しめばいいよという答えを期待して読んでしまうんですが、読み終わった時その答えが掴めているかというとつかめない。

 なにもやることがないなぁという時間は、空を眺めたり、わたしたちの祖先をたどるとみんな繋がっているから実は孤独なんていないと思いを馳せたり、都道府県を全て感じで描けるか挑戦したりといろいろやることがあるので、退屈している暇はない。
 それってつまり、なにもやることがない時間ができたらなにかしようということ?あれ言葉の矛盾が起きてる?と頭が不思議なこんがらがり方をする。

 そもそも、つい何か生産的なことをしようとせずにいられないのもまた人間らしさな気もする。


 ということで、これが正しい退屈な時間の楽しみですよ、というわかりやすいはっきりした答えはないんじゃないかなと思いました。
 あるいは人によって違うものであると。

 わたしはついテストの答えを探すようにあらゆる事物の正解を探してしまうんだけど、この本を読みながら退屈の愉しみ方の正解を掴もうとしても、まるで霧を掴むように、あるいは水の中のように、手を握りしめた途端答えがするりとすり抜けてしまうような感覚でした。


 そういえば養老孟司先生の「ものがわかるということ」もそんな感じだった。

 これを読んだら、わかるとはどういうことなのかがわかるんじゃないか!?

 とつい期待してしまい、夢中で読み進めた結果、読み終わった後もわかるとはどういうことなのかわかりませんでした。



 つまり、退屈の愉しみ方とか、「わかる」とはどういうことかという話題は、この手でつかめる確かな答えがあるわけではないということなんでしょうね。

 確固とした答えはあるように見えているけど実は存在しなくて、ただわたしたちが「退屈な時間とはなんだろう」「わかるとはどういうことなんだろう」と問い続ける姿勢だけがあるのかもしれない。


 つい確固とした答えという終着点を探してしまうけれど、そんなものはない。
 あえて終着点を作るとしたら、いきているわたしたちの考え続ける姿勢なんでしょうか。

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