2020年12月3日(木) 種田山頭火を眺める 文豪の日記とか手紙って公開されがちだけどあれ自分がされたらたまったもんじゃないよね

 今日がいい日だったかは分からないけれど,やることとやることの合間に山頭火俳句集を眺められた.


 これを始めて読んだとき,何となく死を匂わせる句が続く箇所があって(作品は年代順)調べてみたら山頭火はちょうどその時期に自殺未遂をしていたことが分かった,という出来事があったのを思い出した.

雪のあかるさ死ねないからだ
ふるつくふうふうわたしはなぐさまない
酔ひざめの闇にして蛍さまよふ
ほころび縫ふ糸のもつれること
最後の一匹として殺される蠅として
アルコールがユウウツがわたしがさまよふ
死ねる薬を掌にかがやく青葉
死のすがたのまざまざ見えて天の川
死がちかづけばおのれの体臭
おのれにこもればまへもうしろもまんぢゆさげ

 このあたり.
 なんというか,そうか,やっぱりそうだったんだね,と思った.もっと上手く言えたらいいんだけど.
 やっぱり自分の選択として死が常に浮かんでいたんだね,と.


 行乞記の昭和10年8月10日の一部分.

八月十日 第二誕生日,回光返照.

生死一如,自然と自我との融合.
……私はとうとう卒倒した,幸か不幸か,雨がふっていたので雨にうたれて,自然的に意識を回復したが,縁から転がり落ちて雑草の中へうつ伏せになっていた,顔も手も足も擦り剥いだ,さすが不死身に近い私も数日間動けなかった,水ばかり飲んで,自業自得を痛感しつつ生死の境を彷徨した.……
これは知友に与えた報告書の一節である.
 正しくいえば,卒倒でなくして自殺未遂であった.

酔うてこほろぎと寝てゐたよ
という句,お酒を飲んで酔っ払った山頭火が涼しい地面に誘われてこおろぎと一緒に眠ってしまった情景が想像できて,何だかほのぼのとして好きだった.

 でも行乞記の「卒倒」「雑草の中へうつ伏せになっていた」の言葉を見ると,結局お酒を飲んで全部めちゃくちゃにしてしまう,雑草の中で虫と一緒に寝てしまうような人間の風上にも置けない自分を自嘲した歌のようにも見えてしまう.



 山頭火も行乞の旅を記した日記が有名なように,昔の文豪って日記とか手紙とか公開されがちだけど,
今自分がつけてるモーニングページが日記として後世の人に公開されたらたまったもんじゃねぇなとふと思った.

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