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「こいつ誰やねん」からの脱却

先日家族で近くの梅園に行った。

近くと言っても田舎町の「近く」なので
車で30分ほどはかかる場所なのだが、
我が家は毎年見に行っている。

梅の花は桜の花に比べるとやや地味で
枝いっぱいに満開の花びらが付くという
感じでもない。

そして、桜のようにソメイヨシノの集まりではなく
色々な色の梅が植えられていることが多いので
梅園全体が満開になることは少なく、
満開のものもあれば、まだ5分咲きというものもある。
それ故に何となく地味さが出てしまうのだろう。

シーズンということで梅園には多くの人が
来てはいたが、
決して梅の花の下で宴会をするわけではなく、
シートを敷いて花をスケッチをしたり
入り口でもらえる梅ジュースを飲んだりして
穏やかな過ごし方をするイメージである。

別に桜の花見が嫌いというわけではないが、
比較してしまうと私は明らかに梅の花のほうが
好みだし、私の性質に合っている気がする。

なので、毎年家族で梅園に来ているのだが、
今年この梅園を訪れると入り口に見事なまでに
満開になっている木が1本あった。

ここまで満開なのは珍しいなと思い、
私は思わずスマホを取り出して写真を撮った。

私はあまり景色を見ても写真を撮らない。

なぜなら、後から見返すことがほとんどないからである。

結局データの容量が足りなくなって
後から消すことになるだけなので
余計な写真は極力撮らないようにしているのだ。

だが、そんな私でもあまりにキレイな花の前に
シャッターを押してしまった。

そうして梅園を一通り見た後、
私達は帰路についた。

家に帰りふとその日撮った写真を整理しているとき
私はふとあることを思いついた。

”この写真をFacebookに投稿しよう。”

私はFacebookで500人ほどのつながりがいる。

そしてそのつながりの8割強は海外の方である。

前職で赴任していたマレーシアの方や
出張ベースではあるが合計半年ほど滞在した
ベトナムの方々、
そして現職で知り合ったアメリカやヨーロッパの方々、
色んな国の方とFacebookではつながっているので
いかにも日本らしい梅の花の写真は
喜ばれるのではないかと思ったのである。

早速写真と英語のメッセージをつけて発信すると
早速リアクションが来た。

とはいえ、私はFacebookを日ごろから
更新するタイプではない。

今回梅の花を投稿した前は
昨年南アフリカに出張したときの空港の写真であったし
更新頻度としては年に1回ないしは2回程度なのだ。

なので、最初こそリアクションはあれど
せいぜい10件ぐらい”いいね”が付けば
いいところだろうと思っていた。

ところがである。

翌日になりFacebookのアプリを立ち上げると
40件近くのいいねと5件のメッセージを
受信していたのである。

私は正直驚いてしまった。

なぜなら、毎日こうして更新しているnoteや
X(旧Twitter)でも日々得られるいいね数は
15~30程度だからである。

もちろんどれだけの人に見られたかという
分母が大きくなればこれらの数も
大きくなるはずであるが、
Xでは1つの投稿あたり150 ~200の
表示回数(インプレッション)であり、
noteでも1記事当たりの閲覧数は似たような数字である。

Facebookも同じように表示回数を
見る方法はあるようだが、
そもそもFacebookは海外の方々との
交流のためだけに続けているものなので
そのような数字を見たことはない。

しかし、年に1~2回の投稿しかないのに
それほど閲覧数が多いとも思えず、
せいぜい50~100といったところであろう。

このことから考えると
日々動かしているnoteやXに比べても
Facebookでの発信は明らかに
反応する人の割合が多かったということになる。

最初私にはこれがとても不思議なことに思えた。

なぜなら、前者は毎日投稿して
私がこの時間に投稿することはわかっているし
私の投稿を目にした人は私のことを
認知している人が多いはずだからである。

だが、実際の結果はその逆である。

では一体なぜこのような結果になったのだろうか。

そう考えた時、noteやXとFacebookでは
大きな違いが一つあることに気が付いた。

それはFacebookでつながっている人達の
多くは一度リアルにお会いしたことがあり、
noteやXではリアルで会ったことのある人は
ほぼ0だということである。

この違いは実はとても大きいのである。

noteで日ごろ記事を拝読していたり
コメントのやり取りをする方とは
リアルで会ったことがある方以上に
自分のことを知って頂いていると思っているが、
そのような方々は決して多くはない。

これはXでも然りで、日ごろ交流して
私という人がどのような人なのかを
知ってくださっている人は決して多くない。

つまり、依然としてnoteやXでは大半の方々が私のことを
「こいつ誰やねん」と思っているということである。

名前やアイコンは見たことはあるけど
その人が誰かよくわからないと
発信されている内容もあまり意識に引っかからないだろうし、
その投稿に仮に心が動いたとしても
リアクションすることは憚られてしまう。

いい意味で人でリアルに会うということは
「こいつ誰やねん」の領域から抜けるためには
最短の方法なのだ。

実際Facebookでつながっている海外の方々の中には
一度も話をしたことがないけれど
お互いに顔を見たことがる程度の方も含まれている。

しかし、そんな方であっても
少なくとも同じ組織のメンバーとして
共に働いている姿を目にしてきたことで
「こいつ誰やねん」とは思われなくなる。

別に多くの人からリアクションを頂くことを
私自身求めているわけではないが、
どうせ発信するならば多くの人に読んで頂けたほうが
うれしいのは間違いないし、
多くの方の心に何かしら影響を与えられればうれしい。

そう思うと、こまめに自分は何者かということを
発信することは大事なのかもしれない。

以前私はnoteのプロフィール画面に固定する記事を
自己紹介記事にしていたが、
ある時からそれを全く関係ない別の記事に変更した。

それからというものの、
明らかに新規でフォローして頂く数は
減少したのである。

私はフォロワー数を求めているわけではないので
数字的にこの傾向は見えていても
変更はせずにそのまま進めたが、
そうすることでなかなか読者の方の中で
「こいつ誰やねん」を脱却することが
できなくなっているのかもしれない。

そうならないようにプロフィール画面も
もう少し整える必要があるだろうし、
自分が何者なのかをもう少しアピールする
必要もありそうである。

久々に投稿したFacebookで思わぬ気づきを
得ることができた。

やはり、たまにはいつもと違う行動をすることは
大事なのだ。

今日は土曜日。
何かいつもと違う行動をするには
最適な一日である。

今日はどんなことをしようかと考えると
ワクワクする反面、
こうして記事を書きながら
ちらほら目に入る散らかった部屋が
「そんなことより俺を掃除しろ」と
訴えかけてくる。

せっかくのワクワク感を部屋の声に
打ち消されないように
早朝から掃除に取り掛かる私であった。

良き土曜日を。



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