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やりたいことから目を背けていないか

私には今5歳の娘がいる。

この子が生まれたとき、
よく周りの人は「お父さんはメロメロになるね」
などと私をはやし立てたものだが、
その言葉のせいか見事に私は娘にメロメロである。

もちろん長男もかわいいのだが
異性の子供は少し違うような気もしてしまう。

そんな娘も知ってか知らずか
甘え方を心得ており、
いつも上手いタイミングで私をはじめ
大人に甘えるので、
甘え下手だった息子はいつも驚いた様子で
その甘え方を見ている。

息子の気持ちはわからないが、
その視線には羨ましいという気持ちも
入っているだろう。

そんな私の娘であるが、
ちょっと甘えてくるぐらいなら私は
全然何とも思わないし、
むしろ嬉しいとすら感じる。

しかし、時々そのレベルを超えて
ワガママとしか形容しようのない行動に
出ようとするときがある。

それを親としてたしなめると、
娘は怒り、多くの場合泣いてしまう。

そのような場面に遭遇すると
私の中でなにか原因のわからない怒りが
ポコポコと湧き出てくるのである。

少し前の休日のこと、
家族で買い物に出かけて家に着くと
娘がおもむろに「プリキュアの映画が見たい」と言い出した。

今まさに外出から帰ってきて
片付けもしなくてはならないし、
何より少しゆっくりしたい気分である。

プライム動画などで課金すれば
わざわざ外に行かずとも見せることはできるが
サブスクにしてしまうと、暇さえあれば
いつでもプリキュアの映画を見せられることになるし
コストもかかってしまう。

何もプリキュアの映画でなくても
見るべきコンテンツは山ほどあるのに
なぜか今急にプリキュアの映画が見たいと言って
きかない娘。

来週にでもTSUTAYAの近くのスーパーに買い物に行って
DVDを借りようと提案するも嫌がる娘。

妻が他の動画を一緒に見ようと提案しても
断固として断り、とうとう泣き出してしまった。

その時私の中に怒りの感情が出てきているのを感じた。

「そんなこと言ってもアカンもんはアカンねん!」

心からはそんなキツい言葉が出てきそうになったが
もう少し柔らかい言葉に変えて伝えると
娘はしばらく泣いた後、何事もなかったかのように
遊び始めた。

以前からこのように子供たちがワガママを言うと
私の中に怒りが出てくるのを感じていたし、
不覚ながら何度か子供たちに「いい加減にしろよ」と
少し声を荒げてしまったこともある。

そんな時、私はいつもこの感情がなぜ
湧き出てくるのかが疑問であった。

ワガママな言動は確かに自己中心的で
相手のことを考えない身勝手なものであるが、
子供なのでそれは仕方がない。

それは私も重々理解しているし、
だからこそ少々ワガママを言っても
私はそういうものだと思っている。

しかし、自分のワガママを突き通そうと
意地になっている状態を見ると
どうやら私は怒りを感じてしまうのだ。

これはいったいなぜだろうか。

先ほどのプリキュアの映画の件は
実は私に対して主張していたものではなく、
娘は妻に対して強く主張していた。

つまり、私自身が何かをしろと強要されたわけではない。

100歩譲って自分が実害を受けるならば
想定される被害に対して怒りが沸き起こるのは
理解できるが、
自分が被害を受けないにも関わらず
私は怒りを感じてしまった。

色々と考えた結果、私の中で一つの結論に至った。

自分がワガママを言えないことに対する怒りを
娘のワガママに転嫁しているだけではないだろうか。

私は子供の頃からよく遠慮する子供だと言われてきた。

双子だったからというのもあるかもしれないが
兄は比較的自分が欲しいと思ったものを
素直に表明してもらうことが上手く、
私は逆にそれを表明しないことに美学を感じていた。

私の中で印象的なエピソードが一つある。

当時私は兄と共にガンダムのプラモに大ハマリしていた。

そんな頃、誕生日が近づいてきたので
親戚が何かを買ってあげようと私たちに
提案してくれた。

私は本当は武器の音が鳴る「コマンドガンダム」が
とても欲しかった。

しかし、それは普通のプラモとは異なり
価格が高かったのである。

結局私はその時違うガンダムのプラモを
親戚に買ってもらうことにしたのだが、
その時に兄がふと親戚に
「こいつが欲しいのはこれじゃなくて
コマンドガンダムやで」と言ってくれたのだ。

それは何かと尋ねてくる親戚。
私はなんとなく恥ずかしくなって
だまってしまったのだが、
兄がそれを説明してくれたおかげで
私は誕生日に欲しかったコマンドガンダムを
手にすることができた。

あの時、コマンドガンダムから流れてきた
兵器の音はいまだに私の頭に焼き付いている。

そんな子供時代を過ごしながら
私は自分の欲しい気持ちにブレーキを踏み
時には目をそらす生き方をしてきた。

本当はしたいけれど、興味がないフリをしたり
本当は行きたいけれど、行きたくないと言ったり。

そんなことを繰り返しながら
私は大人になった。

もちろん全てのやりたいことを
我慢してきたわけではない。

自分なりには色んなことをチャレンジしてきたし、
ここ数年は特に自分なりに色々と
やりたいことができていると
満足すらしている。

しかし、心の中のどこかに
やりたいことをすることが悪だという気持ちが
残っているのも事実なのだ。

そして、その気持ちが子供のワガママを見たときに
怒りと言う形で出てきているのであろう。

ある意味この怒りに声をつけるとすれば
「俺もそんなワガママ言ってないのに
なんでそんなワガママを言うねん」
なのかもしれない。

こうして文章にしてみて自分で見てみても
あまりに滑稽なものである。

この感情を私はどうすれば手放すことが
できるであろう。

それはやはり自らやりたいことをやり、
それを追求することに対する嫌悪感を
無くすことではないかと思うのだ。

長年ブレーキを踏み、目をそらしてきたせいで
私はいまだに自分がやりたいことに
しっかりと焦点を合わせることが苦手である。

しかし、実際私は日々行動する中で
好きなことを見つけてきたし、
やりたいことも確実に見えるようになった。

こうしてnoteで文章を書いていることも
まさに私がやりたいことなのである。

焦点を合わせるトレーニングをすることで
少しずつ視力が改善していくように
私のやりたいことに焦点を合わせるスキルも
少しずつ改善してきた。

後はそれを着実に実行していく番である。

いきなり変なことはできないが、
少しずつブレーキを解除して
思ったような走りができるようになりたい。

今年40歳を迎える私であるが、
そんなことに気づくにはいい歳だったのかもしれない。



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