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作者の意図を読み取る力

最近時々Facebookを見ている。

別に自分自身ではほとんどアップしないのだが、
仕事の関係でつながりのある海外の方が
しばしばアップされるので
その情報を見るために1日1回ぐらいの頻度で
見るようにしているのだ。

そんな風にFacebookを見ていると
どのような頻度かはわからないが
ショート動画が画面に表示されることがある。

Instagramのリールのような動画が出てきて、
それをタップすると
まさにYouTubeのショート動画のように
動画が流れ始め、
興味がなかったりすると画面を上にスワイプすれば
次の動画に速やかに移る。

私はTikTokを見たことがないので
このようなショート動画にハマるという感覚が
これまでイマイチわからなかったのだが、
これがなかなかクセモノで
見始めるとついつい次々とスワイプして
見続けてしまうものなのだ。

とはいえ、私の目的はFacebookで知り合いの方の
情報を確認することなので、
自分がハマり始めたと思ったら
速やかに止めるようにしている。

しかし、先日Facebookを見ているとき
いつもと同じようにこのショート動画が
流れてきて、
私はあることに気が付き、ゾッとした。

いつの間にか私が気になるトピックの
動画ばかりがそこに並んでいたのである。

・バス釣り
・剣道
・子供のサッカーの練習法
・飛行機の離発着シーン

これは一体なぜだろうか。

Webページの検索履歴から
自分に合った広告が表示される
リスティング広告は過去から何度も目にしてきたし、
自分が気になるものを広告として出されるのは
最初こそ気味が悪いと思っていたものの
今ではそれほど違和感を持たなくなった。

だが、私は上記の様なワードで
Webページを検索をすることはほとんどない。

さらに、他の動画サイトはおろか
FacebookやInstagramでも上記の様なワードを
ハッシュタグで検索したこともない。

では一体なぜ私の好みを把握できたのか。

それは、偶然流れてきた動画を見た際の
視聴完了率やスワイプの仕方がデータとして取られ、
そこから少しずつ私が視聴しがちな動画のカテゴリーが
絞られていったからである。

もはや私達が取られているデータは
検索内容だけではなく、
SNS上で行う全てのモーションが
監視されていると言っても過言ではないのだ。

知らぬ間に自分の興味を深く知られ、
そこにアプローチされて時間を奪う。

これはとても恐ろしいことではないだろうか。

なぜなら、自ら自分に合うものを探すという
プロセスがそこには完全に欠落しているからである。

私は本が好きだが、それは本が自分から
探さなくてはならないメディアだからである。

図書館や本やに行けば無数の本が置かれており、
その中から自分の興味や知りたいことに
ハマりそうなものを探して読む。

当然ながら当たりばかりではなく、
全然面白くないものに出会うことも多いが、
それを繰り返していくうちに
少しずつ制度が上がっていき、
自分の好みのようなものがわかるようになる。

・どんな立場で書かれた文章が好きなのか
・どのような話の展開が好きなのか
・どのような著者が好きなのか
・逆に自分はどのような話や著者が苦手なのか

それは自分から取りに行き吟味するからこそ
得られることであろう。

だが、動画で表示されるものは
あくまでアルゴリズムによって判別されたものなので
確かに自分の好みの内容ばかりが並ぶ一方で、

・どのような動画が好みなのか
・同じカテゴリーの中でも見るものと見ないものの違いは何か

などを考える余地は一切ないのである。

そうして勝手に選定された動画を視聴し続けることで
最初は自分がそれまでに持っていた趣味嗜好が
動画の内容に反映されているであろうが、
長らくそれを繰り返していると、自分の趣味嗜好は
アルゴリズムに支配されるようになる。

なぜなら、アルゴリズムは視聴者の膨大なデータから
好みの傾向を把握しており、
視聴者に飽きずに動画を見てもらうために
その人がハマると考えられる他のカテゴリーの動画も
流すようになるからである。

私が最初にショート動画で流れていたと
認識したのは子供のサッカーの練習法であったが、
そこから知らぬ間に上記の様に表示されるカテゴリーが
増えていったのは
アルゴリズムが私の傾向を予測してハマるジャンルを
試してきたからに他ならない。

正直私は釣りは好きではあるが
長らくちゃんとした釣りには行けていないし
趣味欄に釣りと書くのを躊躇ってしまうほどである。

だが、動画で流されてしまうと
いまだについつい興味を惹かれ視聴してしまう。

現実の世界では優先順位が低く
釣りに行くという行動にうつらなかったものが、
動画の世界では優先順位が引き上げられ
ついつい動画を視聴させられてしまう。

これはある意味で嗜好をハックされていると
いうことである。

たかだか動画ぐらいでと思うかもしれないが、
私達は既にスマホなしで生きられないほど
Webに触れていることを思うと、
私たちの嗜好だけでなく思考もハックされかねない。

しかし、極端な言い方をすれば
それはプロパガンダかもしれないのだ。

私がこうして書く記事は書き手である私の
何かしらの意図が含まれて書かれている。

それと同じように、すべてのコンテンツには
作者の意図が必ずあるものである。

本を読むことは自らその意図を読み解くことだと
私は思っているが、
動画などのコンテンツは作者の意図と関係なく
その動画を流すプラットフォーマーの意図によって
上書きされてしまう。

例えば、私が見てしまう子供のサッカー練習法の
動画をアップした人で考えてみよう。

この場合、動画を上げた方はサッカーの効果的な
練習法を子供たちに教えたいという意図が
必ずあるはずである。

だが、プラットフォーマーには
視聴者の視聴時間を延ばすという意図に
書き換えられてしまう。

無論、動画をアップした人にも
少なからず動画を多くの人に視聴してもらいという
気持ちがあるはずなので、
意図が完全に書き換えられたわけではない。

だが、本質的な意図に外れた使い方を
されていることは間違いないだろう。

その意図のすり替えに私達視聴者は気づかず
「何となく」コンテンツを見ることを
繰り返していくと、
そのうち視聴者の作者の意図を読み取るという力は
衰えてしまう。

本を読まない人が増えたり、
動画を飛ばして視聴する人が増えたのは
コンテンツに含まれた意図を読み取ろうとする力が
衰えているからだと考えると納得できる気がする。

私がnoteでこうして記事を書き続け、
色んな方の記事を拝読するのは、
そこに書かれた内容だけでなく、意図を想像するのが
面白いからである。

だが、今のようなショート動画を何となく
見続ける人が増えると、
自ら筆者の意図をつかもうとすることを
面倒だと感じる人も増えるのではないだろうか。

そう思うと、とても怖いことである。

私も少なからずSNSは見るし、一部投稿もしているが、
SNSと付き合う際に「何となく」にならないように
自分自身でも気を付けなければいけない。

いつもコンテンツの作者の意図をつかもうとすることで
SNSに嗜好や思考をハックされることも防ぐことが
できるであろう。

我が家の子供たちはデジタルネイティブ。
動画を見ないように規制することは実質難しい。

しかし、少なくとも彼らにも
読書をして筆者の意図を読み取るという
面白さを知っていて欲しいと思う。

自分の船のオールはいつも自分で
持っている人生であってほしいものである。


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