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切っては切れない

家事はクラフトワークなものにしてゆきたいと私は思っている。「家事なんて機械や他人に任せればなくなるのではないか」と思っていたけれど、よくよく考えてみれば、どこまで自分でやることが少なくなったとしてもなくなるなんてことは無い。機械に任せても、結局全部が自動になるわけでもないし、他人に任せたとしても、それはただでやってもらっているものではないし永遠にまかせっきりというのも出来るかどうかなんてわからないんじゃないか。家事は人生のなかでも、家族と同じくらいには長い付き合いになるのでは

    • 改めて、未知の世界に踏み込む

      『他者と働く』という本を読んでこの一文に目を惹かれた。というのも、越境をしていてこんなことを感じたことはないだろうか。だんだんと自分の好みがわかってきて自分の好きなことばかりに越境してしまうのではないか。自分の好きなことをするのは確実に楽しいし、気の合う人もいるだろうから心地よい。だが、そこでじっとして新しい情報が入らないようになってしまうと思考が強いつながりの中での常識に引っ張られてしまうように思えるのだ。だからこそ、だんだんと越境している時こそ、自分の中で常識に囚われてし

      • だから、

        長岡ゼミにやってきてからもうどのくらいになるのだろうか?10ヵ月ほどたったころだろう…。すっかりゼミに慣れてしまった気がする。そう思ったのは、ゆうきくんがゼミにやってきたことに起因する。ゆうきくんは所属している大学とは異なる大学のゼミに参加している自分と似た背景を持つ一人だ。彼とゼミが終わった後に初めてゼミに参加した感想について聞いていた。体験したことがどれも新鮮だったという内容だった。自分も来て間もないころは似たような感覚があったんだろうなと思った。どうやったら新しいものが

        • 名前

          これはグラレコを教えてくださった岸さんが普段と仕事の場面では名前を使い分けていることに対してのツイートだ。この「名前を使 い分けること」から、普段ゼミで行われている自分が読んでほしい名前で呼んでもらうことについてどのような効果があるのかについて考えたいと思いこのツイートを取り上げることにした。ゼミで自分が読んでほしい名前を呼んでもらうことによって、対話をしやすい場を整えているのはあるとは思うのだが、自分は別のことももたらされているようにも思えた。ゼミの時の「自分」をつくってい

        切っては切れない

          トウメイナ自分

          前回の妄想紙を講評してもらっている最中にこんなツイートをした。その時に自分の記事を見てくれていた子の一人からこんなことを言われた。「自分は文章の最後を問いかけにしてるよね」と。最初、それについて言われたときは「そうだよなー」くらいにしか思わなかったのだが、これまでの記事がどうだったかと振り返ってみると、ほとんどの記事の最後が問いかけで終えられていた。指摘してもらうまで、そんな自分の癖にさえ気づくことができない。自分について一番知っているようで、一番知らないのは自分なのではとい

          トウメイナ自分

          面倒くさいけど楽しい

          コロナ禍になってから世界の進む時間が加速したと感じたことはないだろうか?少なくとも私は加速したのではないかと感じている。いつでもどこでも世界中の人と話すことができる世界。多くのものが自動化され、自分たちがわざわざ面倒なことをしなくてもよくなっていく世界。とてもとても楽になったし、ありがたいと感じてる。ただ、私は面倒さも必要なのではないかと思うことがある。特にコミュニケーションにおいて「面倒くささ」が必要なのではないかと思うのである。人と話すことがあっても必要な事項だけ話して終

          面倒くさいけど楽しい

          笑いは凶器?

           なぜ、このように思ったのかといえば、私のリアクションについて考えさせられる機会があったからだ。2年前ほど前、私にはリアクションがなく、何考えているかわからないといわれたことがある。それ以降、リアクションを大きくしようとする癖をつけたり、その場に合わせて知らなくてもリアクションをするということを意識的にしてみた。最近ではそれを無意識でやることもあるくらいに。しかし、年末最後のゼミに参加した帰りに自分のしたリアクションについての話をしてから、自分のリアクションはどうあるべきなの

          笑いは凶器?

          共に暮らすからこそ

          国立近代美術館で民藝の展示を見ている時に考えていたのは、「心地よい場作り」についてである。 展示されていた作品群を見ていて、日常的な日々を支えていて、寄り添ってくれる家具や食器、調理道具、服達と共存していることを思い出した。 私たちの暮らしに合わせて、場に適応するかのように変化を続けている日常のものたち。私は普段は場作りを考える時に人ばかりを意識していた。だが、人だけではなく、「もの」も場作りの一員なのだと認識しなければならない。そうでなければみんなが心地よいとは言えない

          共に暮らすからこそ

          やりたいことやればいいじゃん。

          「パラレルキャリア」ってなんなの?私は最近、疑問に思っている。 「パラレルキャリア」は意識してやらなきゃいけないのだろうか? 私が「パラレルキャリア」という言葉を知ったは大学2年生だ。大学のキャリアについて考える講義でこの言葉を初めて聞いた。その時から今に至るまで、ずっと疑問に思っているのである。   なんで、いくつもやりたいことをやっているだけのことを、わざわざ「パラレルキャリア」と呼ぶのだろうかと。 いくつもの興味があることに関わることは特別なことではないのではな

          やりたいことやればいいじゃん。