私の恋は叶わない。



小説
雪が降る今日この頃。私は普段上る紀尾井坂を駆けていた。
「……はぁっ、はあっ」
息が上がり、肺のあたりが苦しくなる。
足に疲労感が溜まり、もうこれ以上歩けないと思うのに、それでも足を動かすことを止めない私がいた。
――私は今、葵祭に参加している。葵祭とは源氏物語の世界を模した行列や神輿などが練って歩くお祭りだ。
平安時代の貴族のように優雅な衣装に身を包んだり、お姫様のような髪型にしてみたりと様々な姿になれるこの祭りは、毎年多くの観光客で賑わっている。
しかし今年は例年と違い、いつもより人が溢れかえっていた。それもそのはず、何と言っても今年の目玉である『源氏物語』の登場人物に扮した行列があるからだ。
そしてその中に私が着ている着物とよく似たものを身に纏った集団を見つけた。
(あそこに紫の上がいる!)
そう思うと同時に、自然と身体が動いていた。
葵祭には源氏物語のヒロイン達の衣装を着た集団が練り歩き、それぞれのヒロインを演じる役者さん達が声を合わせて歌を詠むという催し物がある。
もちろん主役の光源氏は別だが、他のキャラクター達の配役は当日まで明かされないため、誰になるのか楽しみにしていたのだ。
そしてついに、私は憧れの人を見つけることができた。
紫の上に扮する人は、顔の下半分を隠していてどんな顔をしているかわからないけれど、とても美しい人だった。
長い髪は結い上げられて後頭部の高い位置から垂らされている。そのため首筋がよく見え、色気のあるうなじが見え隠れして艶めかしい雰囲気を出していた。
身につけているのは紫の色をした小袖で、その上に濃い紫色の長い上掛けを着ている。頭にも同じような色合いの布を被っていて、それがまたよく似合っていた。
手に持つ扇子で口元を隠す仕草も絵になっていて、まるで本物の紫の上みたいだと思った。
私は紫の上役の人に話しかけようと近づきかけたところで、隣にいた男の存在に気づいて足を止めた。
(あの人……)
私の目に留まった男は、源氏役に選ばれた男だった。彼は光る君の役をするらしく、豪華な装束を身につけている。
彼が身につけているのは青鈍色の直衣というもので、平安貴族の男性しか着用できないものだった。だからなのか、彼の姿がすごく様になっていた。
「…………」
私は二人の姿をじっと見つめていた。すると二人は楽しそうに話しながら歩いて行く。
それを見た瞬間、胸の中に黒い感情が生まれた。
(どうしてあの人と二人でいるの?)
さっきまで私と一緒にいたはずの彼はどこに行ったの? なぜあの女の隣にいるの? そんな疑問ばかりが浮かんできて、自分でもわかるほど気分が落ちていく。
すると二人の会話が聞こえてきた。「ねぇ、そろそろ僕たちの出番じゃない?」
「ああ、そうだね。じゃあそろそろ行こうか」
彼らはこれからどこかへ行くらしい。私は慌ててその後を追いかけようとした。でもその時――。
「あっ!」
男が突然立ち止まり、何かを見つけたように声を上げた。どうしたのかと思って視線を追うと、そこには見覚えのある人物の姿があった。
(あれって……)
そこにいたのは葵祭に参加するためにやってきた光る君の役の彼だった。彼は一人で佇んで、目の前を通り過ぎて行く人々を眺めながら微笑んでいる。
その笑顔はとても穏やかで優しげなものなのに、なぜか寒気が走った。
一体何を考えているのかまったく読めない表情をしているせいかもしれない。
「…………」
私は一瞬躊躇ったが、やはり彼にも声を掛けることにした。
「あのっ!……お久しぶりです」
私が声をかけると、彼はこちらを振り向いた。
「君は確か……藤壺の宮の娘の……」
「はい、夕霧の中宮に仕える女房の一人でございます」
そう答えると、彼は不思議そうな顔をした。
「夕霧の……ということは、雲居雁の姉にあたる方ですね」
「ええ、まぁ……。それよりも先程はありがとうございました。あなたのおかげで無事に葵祭に参加できましたわ」
「それはよかった。楽しんで頂けたなら幸いです」
「はい、とても楽しいひと時を過ごすことができましたわ」
本当はあまり楽しくなかったけど、一応そう答えておく。
すると彼はにこっと笑って言った。
「では、僕はこれで失礼します。まだ役目があるので行かないといけませんから」
「あ、はい。頑張ってください」
そう言って別れようとしたが、ふとあることを思い出して呼び止める。
「あの……一つだけ聞いてもいいですか?」
「何でしょうか…?」
「以前、私に会わせたい人がいるって仰っていたと思うのですが、その方はどちらに?」
「ああ、そのことですか。すみません、今日は都合がつかなくて来れなかったんです」
「そうだったのですか。その方が来られなかったのは残念でしたが、代わりにあなたのお兄様にお会いすることができて良かったと思います」
きっとこの人は兄弟想いの良い人なんだろうな。そう思って言うと、何故か彼は目を細めた。
「へぇー、僕の兄のことが気に入ったのですか?」
「はい、とても良い人だと思いました」
そう答えると、彼は笑みを深めた。
「あははっ、そうでしょう。僕の兄は素晴らしい人ですからね。あなたのような美しい人に気に入られるとは、さすが僕の兄だ。――ところで話は変わりますが、この後の予定は空いてますか?」
「え? あ、はい。特に何もありませんが……」
唐突にそんな質問をされて戸惑う。すると彼はにっこりと笑って言った。
「それならば一緒に祭りを見て回りましょう。せっかくの祭りなんですから、誰かと一緒に回らないともったいないですよ」
「いえ、私は別に……」
「いいから行きましょう。もうすぐ行列が始まりますから、急がないと間に合いませんよ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 私は……きゃあっ!?」
彼が強引に私の腕を引っ張ったことで体勢を崩してしまう。そして地面に倒れそうになったところを、咄嵯に差し出された彼の手に受け止められてしまった。
「大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございます」
私は素直に感謝の言葉を口にする。
しかし次の瞬間、私は彼の目つきが変わったことに気づいた。
その瞳には今まで見たことのないような熱が込められている。
まるで獲物を狙う獣のように鋭い眼差しで見つめられ、背筋に悪寒が走った。
「……」
何故こんな目で見られなければならないのかわからず困惑していると、彼は口を開いた。
「――では、行きましょうか」
「え、あの……」
戸惑いながらも歩き出した彼の後を追う。するとすぐに、楽しそうに話している他の男達の姿を見つけた。
「やあ、待たせてすまないね」
彼がそう声をかけると、彼らは嬉しそうに駆け寄ってきた。
「遅いぞ。一体どこに行ってたんだ?」
「悪い、悪い。知り合いがいて少し話していたんだよ」
「そうなのか。でもそろそろ始まるみたいだから行こうぜ」
「ああ、そうだね」
彼らはそう言い合って、そのまま歩いて行く。私は慌てて彼らの後に続いた。
「……」
前を歩く三人の姿を眺める。(これは一体どういう状況なの?)
どうして私は彼らと一緒にいるのかしら。
というか、どうして彼は私を誘ったのだろうか。
そんなことを考えているうちに行列の先頭までやってきた。すると、ちょうど舞が始まったところだった。
笛の音に合わせて、人々が舞う。
その様子はとても幻想的で美しく、思わず見入ってしまうほどだった。
「綺麗ですね」
私が呟くようにそう言うと、隣にいた男がこちらを見た。
「ああ、とても美しいよね」
彼はそう言って微笑む。
その顔はとても優しげなものだったが、何故か違和感を覚えた。
(あれ……)
ふと視線を感じて振り返ると、そこには葵の君役の人がいた。
彼はこちらに向かって微笑んでいる。
(……気のせいかしら)
彼はこちらを見つめたまま動かない。
けれど、視線が合うと、彼はふっと顔を逸らすようにして去っていった。
その時、ふわりと風に乗って漂ってきた香り。
(あれ、この匂いは……)
どこかで嗅いだことのある香の匂いだった。
「どうかしましたか?」
「え?」
「何か考え事をしているようだったので」
「あ、いえ……。何でもないです」
「そうですか」
そう言うと彼は再び舞台へと視線を向けた。
その後、行列は順調に進んでいき、やがて一番奥にある本殿の前に着いた。
そこでは神官が祈祷を行っている最中だった。
それを眺めながら、私は心の中で思った。
『神様、お願いします! どうか夕霧様と光君の縁談を取り消してください!』と。
すると突然、背後から「おい」と声を掛けられた。
驚いて振り向くと、そこにいたのは雲居雁の父親である内大臣だった。彼は険しい表情をして、私を睨みつけていた。
「お前が夕霧の縁者だという女房だな?」
「はい、そうですが……あなたは?」
「雲居雁の父だ」
「あぁ、あなたがそうでしたの。いつも娘がお世話になっております」
そう言って頭を下げる。
「挨拶はどうでもいい。それより、一つ聞きたいことがあるのだが」
「何でしょうか?」
「最近、娘の様子がおかしいとは思わないか?」
「え?……いえ、特に思い当たることはありませんが」
「本当か?」
そう問われて首を傾げる。
「はい、本当に何もございませんわ」
「……そうか」
内大臣は不機嫌そうな声でそう言うと、その場から立ち去った。
「あの人、何をしに来たんでしょう?」
そう疑問を口にして振り返ると、彼は難しい顔をしていた。
「……」
「あの、どうかなさいましたか?」
「いえ、別に……」
彼はそう答えると、黙り込んでしまった。………………
「今日はありがとうございました」
祭りが終わった後、屋敷へ戻る前に私は彼に礼を述べた。
「いいえ、こちらこそ付き合っていただいてありがとうございます」
彼はそう答えた後、真剣な面持ちになった。
「実は、あなたに伝えなければいけないことがありまして……」
「え、伝えないといけないことですか?」
不思議に思って訊き返すと、彼はこくりと小さくうなずいた。
「……はい」
そして意を決したように口を開く。
「私は――あなたのことが好きなんです」
「……は?」
一瞬、彼の言っている言葉の意味がわからなかった。
「すみません、もう一度言っていただけますか?」
「あなたが好きです」
「それは友人として、という意味でですか?」
「違います。異性としての好きという意味ですよ」
「え........」
予想外の告白に驚きを隠せない。まさかこんなところで愛の告白を受けるなんて想像もしていなかった。
(でもどうして急に?)
彼の気持ちが全くわからず困惑する。
すると彼はさらに続けた。
「ずっと前から好きでした。でも、なかなか想いを伝える勇気が出なくて。それで今日、思い切って伝えたのです」
「……」
「もちろん今すぐ返事をしなくても構いません。けれど、考えておいていただきたい。私のことを男として見てくれるかどうか」
彼はそう言うと、私の目を見つめた。
その瞳には今まで見たことのない熱が宿っているような気がする。
「それでは、失礼します」
彼はそう告げると、そのまま背を向けて去って行った。
私はただ呆然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
【後書き】
※次話は後日投稿予定です。
※このお話には残酷な表現が含まれています。苦手な方は閲覧をお控えください。


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