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教える

いつだったかもう忘れてしまうくらい随分昔、クラリネットの師匠のK先生のご自宅でレッスンを受けていた頃の話である。
その日はレッスン終了が遅くなり、しかも後にレッスン生が待っている、という事だったので、私は大急ぎで楽器を片付けていた。その時玄関のチャイムがなり、先生が応対しているのが聞こえてきた。次のレッスン生が来たようだった。
「しばらく待ってなさい。今片付け中だから」
あまり聞いたことのない、優しいとは言えない言い方だったので、私は訝しく思って戻ってきた先生をチラッと見た。
「ちゃんと片付けなさい。待たせておけば良いから」
先生は落ち着き払っているが、既に次のレッスン生の時刻になっているのだから気が急く。
「すいません、速攻片付けますっ!」
できる限り手早く片付けていると、ガラリと玄関の引き戸が開き、待っていたレッスン生が入ってきた。たたきで待っているつもりらしい。
吹奏楽強豪の、有名私立高校の制服を着た女子高生だった。

彼女は無表情だった。開いているレッスン室のドア越しに、ジロリと冷たい目つきで慌てて片付けをしているおばさんを一瞥した。
遅くなって怒っているのかな。次に塾の予定でもあるのかも。私がレッスン時間を延長した訳ではないが、待たせて申し訳ない。
そう思った私は、楽器ケースをたたきに引きずり出した。
「先生、もうレッスン始めてあげて下さい。私、ここで片付けさせてもらいます」
そう私が言い終わるより先に、先生はその女子高生に言った。
「外で待っていなさい!」
強い言い方に、私はビックリした。
女子高生は眉一つ動かさず、黙って外に出た。
どう言っていいかわからず、私は早々に失礼した。気まずかった。

次のレッスンは一ヶ月後だった。前回焦ったので事前に、
「先生、今日は次のレッスンの方いらっしゃらないですよね?」
と聞いた。
「今日は?前回誰かいましたっけ?」
先生はすっかり忘れてしまっていた。無理もない。沢山のレッスン生を教えてらっしゃるのだ。
「ほら、〇〇高校の生徒さん…」
私が言うと、やっと先生は思い出したようだった。
「ああ、"あれ"ね。辞めてもらいました」
サラリとした先生の返事に、私はビックリしてしまった。

先生のレッスン生は私のような一般人もいるが、音大を目指す高校生等も多い。音大に進学を目指しているとなると、かなり厳しいレッスンである。受験生何人かのレッスンを見学させて貰った事があるが、先生は人格が変わったように厳しかった。私にもたいして優しくはなかったが、あんなに厳しい事はない。プロはそれだけ厳しい世界という事なのだろう、と思って見ていた。
あの女子高生も多分、音大受験生である。辞めてもらうって…穏やかではない。

「どうしてですか?!」
そう聞かずにはいられなかった。
個人の事ですから、と先生は多くを語らなかったが、
「演奏者として以前に、彼女は人間の基本的なところがだめなんです。ああいう人間は残念ですが、いくら上手くてもプロにはなれません。プロと言っても人間同士の世界ですから」
と静かに仰った。
「そうですか…厳しいんですね」
私が小さくそう言うと、
「音楽家も他の仕事も、そういう所は同じなんですよ」
と言って先生は少し笑った。

彼女の何がいけなかったのだろう。確かに、無表情に私を見下ろしてニコリともしなかったが、そういう気質の子というだけ、と考える事だって出来る。そういう性格ではプロとしてやっていけない、という事なのだろうか。
先生と彼女のやり取りを聞いていないからよく分からないが、そういった事だったのかも知れない。

またある時は、レッスン中に電話がかかってきた。
聞くともなしに聞いていると、願書提出がどうのこうの、という話だったので、電話を終えられた先生に
「音大受験の生徒さんからですか?」
と水をむけると、
「いえ、彼女は看護学校に行きます」
と仰るのでビックリした。
「才能のない生徒にそれをわからせてあげて、先の人生が本人にとって有意義なものになるようにサポートしてあげるのも、僕達教える者の仕事なんですよ」
先生の言葉は穏やかだったが、正直酷いなあ、と思った。私の心中を読むように、先生はこう続けた。
「目指したら必ずプロになれる、ってものではありませんから」
呟くように仰る先生の、その見極めが出来る才能と努力の量を思った。なんだか先生が凄く遠くにいるような気がした。

先生のお話を伺っていると、教える仕事の難しさと大変さが伝わってくる。でも先生は
「いつか世界で活躍する逸材を育ててみたい」
と思っていらっしゃるそうだ。
先生だったら出来そうな気がしている。