見出し画像

執着の重さと慈悲の軽やかさ

ルサンチマンでもなんでも自分の中にある負の感情は重たいのだ。嫉み、妬み、恨み、怨み、憎しみ、怒り、悲しみ、哀しみ、そんな色とりどりの負の感情は鈍く、重く、遅く、停滞する。私が段々と日々過ごすことが軽くなっていくにつれて、こういった重たい感情から解き放たれていったのをよく覚えている。
 さまざまな人々がいるけれど、この重い感情を纏っている人と近づくとそれが感染するように自分もまた重く、遅くなっていくのがわかる。
ダンテの『神曲』にはこの地獄、煉獄のような重さから天国のような軽やかさまで描かれているようである。そう、天国は軽いのだ。私は心の問題に向き合ってきて、ダンテの『神曲』ばりに地獄から天国まで味わってきた。もちろん天国の方が楽であるのは間違いない。仏教の悟りの境地というのは、天国のような軽さのことなのだとやっとわかった。

 ランタン渓谷の丘の上に座り込んで、さっきから遠くの景色を見つめていた私の視界に大きな変化が現れるきっかけになったのは、何か対岸に光るものを認めた瞬間だった。光の点はしだいに増加し、対岸の景色一面をおおうようになった。驚いた私は、もっと手近の草原に目を移した。するとそこでも、石や草がしだいに輪郭を失って、その周辺部が発光し出したのだ。あらゆる草、あらゆる石が光の点を放出するようになった。光の点はいつしか私の視野全体をおおいつくすようになり、その光の点は大きな渦をなすように、次から次へと産まれてくるのだ。
 はじめのうち、その光の点のひとつひとつは奇妙な動きをしめした。小さな旋回運動をしながら、視界の外側にむかってヒュルヒュルと飛翔していくのだ。こういう光点がいくつもつながって飛んでいくものもある。しかし、しだいに無数の旋回運動がおさまってきた。と、ある瞬間、この光の点が一斉に大きな変化をしめし始めたのだ。視野の中心点に深い青をたたえた洞のようなものを残して、そこから無数の光の点が外部にむかって直線状に放射を始めたのである。無数の光の粒が、それこそ次から次へと放出されてきた。何か力を加えられて飛び出してくる感覚とも違う。ほんとうに軽やかな力が、それこそ自然にたちのぼってきて、それが光の粒子となって飛び交っているといった様子なのだ。
 「ブッダの慈悲は無数の光の放射にほかならない」というノルブ・トゥルク(ニョンパ行者の名)の言葉が、このときはじめてわかったような気がして、私は喜びでいっぱいになってしまった。世界はたえまなく光の点を放射しつづけ、それが世界じゅうをおおい尽くしている。世界は慈悲にみたされているのに、私たちにはそれが感じ取れなくなっているだけなのだ。しかし今は、慈悲のしめす動きも、形も、私にはこの目で掴むことができる。

雪片曲線論 中沢新一(1985)p172

実際、『神曲』のたどる旅は、つねに速度と交通に対する鋭い感覚に貫かれている。ダンテはまず、九層からなる巨大な地獄の階梯を下へ下へと降りくだっていくが、このときの速度は著しく減少し、交通は最大限の阻害に出会う。地獄へ行くダンテの歩みは遅々としている。それは彼の歩みの粘性を持った物質性の沼が阻もうとするからだ。それはあらゆるものを捉え、凝結させ、自我の内部に縛りつかて身動きもできないようにしてしまう。だが、ようやく地獄を抜け出たダンテが、ら旋状にそびえる煉獄の山にとりかかると、山を登る苦しさとひきかえにその足はしだいに軽やかになる。登はんの速度は遅々としているが、粘着性から解き放たれたダンテの歩みは軽快になり、煉獄山の頂にある地上楽園にたどりつくころには、翼を持った天使にも負けないほどの軽やかさと速力が取りもどされている。
 ここから『神曲』はさらに速力を増してくる。ベアトリーチェにいざなわれ、天国への上昇運動にはいったダンテの身体は、たえず小刻みに加速され、大きな光の渦をなして超高速で旋回する至高天めがけて、矢のように向かっていく。ここでは、光の身体を持った天使はすばやい速度で旋回しながら、たがいに接近したり、触れ合ったりしながら、まったく自由で軽やかな交通を行なっている。ダンテは、光の旋回運動がしめす、この軽やかな交通状態を、「天使の愛」でみたされている、と描くのだ。

雪片曲線論 中沢新一(1985)p176

まったくの門外漢なのでざっくりとした話しかできないが、量子力学にてこの光のような交通と、負の感情による交通の阻害などは解明されてきているような気がしている。人が軽やかでいればいるほど、事事無礙法界で表されるようなお互いの交通は融通無礙に行われていく。

心を軽やかにしていくと、慈悲で満ちた世界が現れてくる。なんて素晴らしいのだろう。交通を妨げる負の感情を取り払っていけば、光の愛に満ちた世界がそこにはあるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?