徒然日記2020.08.18

今日は起きたら朝食のワンプレートがデスクの上に置いてあった。妻が作っておいておいてくれた。感謝しながら食した。美味しい。いつものマンデリンのアイスコーヒーで流し込んで、朝日新聞をiPadで読む。朝の血圧も測った。概ね正常値だったので、ホッとする。自宅で1時間ほど仕事をしてから出発した。いつもの仲の良い同僚と電話をしながら、運転中の暇な時間を過ごす。今日は取引先を4件くらい訪問し、長らくテレワークで会っていない上司とも落ち合って面談もこなし、忙しい一日だった。帰宅時間はいつもどおりの7時半過ぎ。子どもたちは帰宅したら元気だった。子どもの元気な笑顔を見ると仕事の疲れが吹っ飛ぶ。昨日も同じことを書いたが、事実なので今日も書き留めた。夕食は妻特製の酢鶏、今日の酢鶏は完成度が高く、とても美味しくいただいた。ビールはノンアルコールビール。そして寝かしつけを私が担当し、妻は近所を5周も走ったという。私は子どもたちの寝かしつけが終わった後、4周ウォーキングした。雨天以外は続けていきたいと思う。

さて、今日は私の興味分野である、ユングの「非因果的連関」について考えたいと思う。生きていると偶然では片付けられない、衝撃的な非因果的連関を体験することがある。ヌミノース体験とも言うが、宗教的な人生に関わる体験。以下、海洋生物学の博士、大垣俊一の書評から引用する。

日経新聞に「私の履歴書」という、各界の著名人の自叙伝を連載する欄がある。そこに かつて下着メーカー‘'ワコール’の創業者、塚本幸一が寄せた手記は、さすが時代の荒波 をくぐってきた経営者の文章には胸を打つものがあると、深く印象に残るものであった。
第二次世界大戦前夜、軍隊への召集を目前にした塚本は、ある病弱の女性と恋に落ちる。 出征の日、病を押して駅頭に見送りに出た彼女は車中に塚本の姿を認め、車窓によろめき 寄って、抱えていた包みをどさりと投げてよこした。あとで開けてみるとそこには握り飯 と数珠が入っており、包み紙には「命に代えてお守りします」としたためてあった。その 数珠を腕に巻いて出征。中国大陸を転戦するうち、塚本はある戦場で至近弾を受けて吹き 飛ばされた。その時、数珠は切れて浙江省の泥田の中に飛び散ったが、しかし彼自身はほ とんどけがもなく、奇跡的に助かったという。そして戦争が終わり、日本に帰ってすぐに 恋人の家を訪ねたが、彼女は既に亡くなっていた。その死去の日を聞いた塚本は衝撃を受 ける。それは彼が浙江省で砲弾に吹き飛ばされた、まさにその日だったからである。塚本 は恋人がその言葉通り、命に代えて自分を守ってくれたものと信じた。

書評 「共時性:非因果的連関の原理」 C. G. ユング
大垣俊一(2006)

久しぶりに心の揺さぶる非因果的連関、シンクロニシティに出会った。この体験は経験する本人とって宗教的な体験そのものではないかと思う。病弱な彼女が命をかけて守りますと託した数珠が、戦場で死にかけて数珠が飛び散った同じ日に彼女が亡くなっていた。これを体験した人は、どのように思うだろうか?人知を超えた、科学や因果律では説明できない領域に深く揺さぶられることだろう。

人はしばしばそのようなヌミノースな体験をする。そこに深い意味を感じ、その体験こそがその後の人生を歩む上で大きな「支え」となりうる。人は弱い生き物で、現代は因果律に支配されているため、なにか大きな試練があったときに、ヌミノース体験をしていない人、もしくは見逃している人は、心がポキッと折れてしまう。この体験をした塚本幸一という人は、その後下着メーカー、ワコールを創業して紆余曲折を経て会社を大企業へと成長させる。彼が晩年に日経新聞で自分史を書いたときに真っ先に出てくるヌミノース体験がこのエピソードなのだ。どれだけ支えられていたことだろうか。このような非因果的連関を経験すると、自分の中にそのような「神」とも言える領域が存在することを知る。そしてそのような絶対的な「神」の領域に支えられて、試練にも耐えて生き抜いていくことができるのかもしれない。

河合 多神教というような言い方をすれば、僕の場合だったら、僕の根拠に一人の神がいる。だからその神さんが右と言うからこう行くと。ただし、一神教じゃないですから。そうすると、僕の神さんと中沢さんの神さんが違う時があるわけ。

河合隼雄・中沢新一(1998).
ブッダの夢 河合隼雄と中沢新一の対話.
死を特定の教義によって説明するのではなく、ともかく虚心にその現象を見ようとするとき、いろいろと不思議な現象━共時的現象━が生じることについては、第三章に述べた。その点について、キュブラー・ロスは死後の世界を信じているのではなく知っていることを強調する。

河合隼雄(1994).
河合隼雄著作集第11巻 宗教と科学

因果では説明できない世界、それは「神」のような領域でもあるし、「死後の世界」とも言えるかもしれない。そのような領域をヌミノース体験を通して「知って」いる人は強い。その神のような領域に支えられて生きているからだ。元来、修行というものは、過酷な修練によってヌミノース体験をすることによって、それを「知る」ことを重要視する。

私はそれを知るために、「座禅」をしているし、「本」を読む。その領域に接近していきたいからだ。まだ確信として「知る」ことは出来ていないが、自分なりの修練によって、知りたいと思っている。

さて今日も生きた。寝る前に塚本幸一さんが支えられたヌミノース体験を読めて本当に良かった。今日生きられたことに感謝したい。子どもの笑顔は希望に満ちている。妻の日々の支えにも感謝が尽きない。このような気持ちで日記をおわる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?