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本気で読書感想文(京極夏彦さん『ヒトごろし』序)



 最初の一文に力を入れるのは読んでもらうためだ。スピード感のある導入を工作するのも読んでもらうためだ。単元を区切るのも、一文一文のつなぎを修正しつづけるのも、全ては読んでもらうためだ。
 全ては読まれることを前提としての所業。ところがこの著者、本という実体を生成することのできる立場にいながら、まるで読んでもらう気などないかのような厚かましさ、いや、実物の厚さ。「サイコロ本」は文庫本。ハードカバーな本書はもはや大辞林。

厚さ6cm
こういうお菓子あるよね


どうしてこうできなかったのか(分割)



 本書は土方歳三を中心とした、新撰組の物語。確かに小説を書くこと自体嫌いだと公言している上、仕事だからとやむなく書いていたとしても、これはあんまりだろうと思った。ただでさえ首、肩に負荷のかかりやすい生活をしている現代人への、これは踏み絵まがいの挑戦状かもしれない。

〈いや、なら読まなくていい〉
 嫌なら読まなくていい。

 だが目の前に実体はある。横柄な存在は、隣の倍の厚み。こっちも決して薄くないにも関わらず、だ。ならばせめてこれを見習って上下巻にしてくれよ。それならまだ分かる。それならまだ読ませる気があると思える。
 一体どこの誰が丸々辞書一冊読もうと思う。
 これは首、肩、その他身体の節々を中心とした不調を代償に、それでも読みたくて読みたくて震える末期患者が、はあはあ言いながら貪るものである恐ろしい。

 合法とはいえ、それはもはやドラッグの域。
 一度でいいから言ってみたい。
〈それでも読みたいんだろう? だったら差し出せ。
 金だけでなく、時間、身体に支障をきたすリスク。
 覚悟ができたなら存分に与えてやろうぢやあないか〉

末期患者の努力、1「足の長い椅子を机にする」
末期患者の努力、2「分厚いクッション2つ重ね」



 そうして差し出した結果「頭、首、両肩の取り憑かれたんじゃないかという重み、腰に曇天の違和感、右大腿裏の不穏なハリ感」と引き換えに得たのが今回の感想文。代償が発生すると重みが増す。内容的な重みが伴うかは別として。
 この作品の著者こそ、世に出そうとも積極的に読まれる気などないのかもしれないが、読まれることを前提として仕上げている分、私の方が受けるダメージがでかい。だったらそのハードルを下げればいいんじゃないかという話だが、それではあまりに寂しい。確かに平素から静かな空間ではあるものの、それでもせっかく書き残すんだ。せっかく楽しかったよと本を掲げてみるのだ。上がらない肩で。傑作を生む努力とやらをしようじゃないか。得た喜びを還元しようじゃないか。何より私自身が新鮮なまま記憶しておくために。

 さて、始めようか。私の目が黒い内に(遠い目)

 


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