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独り言多めの読書感想文,マンガver(高野ひと深さん『私の少年』)



同じように肌を見せても「ヘルシー」と「セクシー」に分かれるように、恋と呼ばれるあれこれにも分類がある。ことこの作品に垣間見たのは「ヘルシー」それ以上にストイックにトレーニングをひた続ける両者の姿。そう思えたら年齢はもはや大した問題ではないのかもしれない。


『宇宙の話をしよう』というセリフが漫画「宇宙兄弟」に出てくる。それは「仲間同士で意見が対立しようと、ここに集まっている以上根っこは同じ。特殊環境下、ともすれば暴走しがちな精神状態をニュートラルに戻す」魔法の言葉だ。それになぞらえて

『真修(ましゅう)の話をしよう』これは私にとって「複雑な人間関係に疲れて無意識に相手を何かしらのフォルダに振り分けようとした時、ニュートラルに戻れる」言葉だ。今つくった。


物語はスポーツメーカーに勤める30歳の聡子と、12歳の真修の交流を描く。2年前、岡田健史さん、有村架純さん出演で実写化された「中学聖日記」が記憶に新しいが、私にとってほぼ同カテゴリの認識である。どちらもヒューマンドラマだが、違いとして、表題作は小学生から追っているため、より恋愛色を薄めた印象。そうして、よりソーシャルディスタンスを徹底しているイメージだ。それを破ろうとすると周りが妨害するか、本人が気づいて離れる。故に切ない距離感が延々と続く。ただ「それを破ろうとする」能動的一打が強烈で、私自身、大人になる程傷つかないように上手く立ち回るようになっていた事実をまざまざと見せつけられる。これが「刺激」となり、ハマる女性は多いと思う。実際私の本棚、表題作の隣には「地縛少年花子くん」と「ヤンキーショタとオタクおねえさん」が並んでいる。これはその「後先考えず突っ込める幼さがまぶしい」が故のコレクションと言えるのかもしれない。その純粋なひたむきさは、例え傷ついたとしても回復の早いエネルギー量を暗に伝える。次旦那に「くれぐれも捕まらないように」と念を押されたらそう答えようと思う。

ただ、結局そこなのだ。実際2人の間に言葉にできないどんな関係があろうと、第三者の目から見た時アウトだったらアウトなのだ。物語はだから感情と理性、個人と社会の間の行き来を繰り返して、琴線に触れないように進んでいく。ソーシャルディスタンス。その人に対する思いは、愛だの恋だの簡単に分類できるものばかりでなく、むしろ簡単に振り分けられず宙に浮いたものこそ純度が高い。わざわざその感情に名前をつけて安心するのは、安っぽい共感がため。そんなもののために今感じている思いを軽んじるのか。だったらそんなもの、必要ないと思わないか。人一人を思うことは、だから孤独だ。その静けさに、ざわめきに耐えられないのに、本当に大切にしたい人を大切にできるとは思わない。

だから今できる精一杯を相手に届ける。距離を保ったまま、まっすぐ相手を見て言葉を投げかける。話し方一つでその人が出る。イントネーション、しゃべる早さ、抑揚。目を合わせるか合わせないか。その時指先はどうなっているか。そんな一つ一つを丁寧に追って、焼き付ける。

「明日も連絡していいですか?」

好き、より、愛してる、より、あるいは幸福度の高い言葉。今できる精一杯を相手に届ける。リスクを負う様子が見てとれた時、初めて人は動く。その人が傷つく未来を予見して、傷つかないように手を差し伸べる。聡子は

だから真修が今できる精一杯を届けようとする姿に、自分のできる精一杯で応えようとした。大人である聡子には見えてしまう社会という規範。第三者の目から見た自分たちの行動を照らし合わせて、言い訳の立つ範囲で動くことを徹底する。容量一杯。幼くして失った母親の面影、女性としての敬愛、恋慕を抱えてぶつかる真修。「人は不完全で、片割れを探している」という観念を、当然のように押し付けてくる社会の生きづらさに癒しを求めていた聡子。その2人を象徴する、対照的な一文を紹介しよう。


『ふしぎ 聡子さんにきょう何話そうって考えてると すごく目がよくなる気がする』(真修。4巻より)

『私はね、「恋」が怖いんだ』(聡子。9巻より)


成長期、というのは、成長著しいから成長期というのであって、この一文だけでも両者の違いが浮き彫りになる。その一方、全く別の世界を見ていたかに思えた2人が、刹那的に噛み合うシーンが用意されている。それこそが先程お伝えした「刺激」だ。


『俺 聡子さんが大人だから すきになったんじゃないです 俺のことは 子どもだって思ってくれて全然いい けど 聡子さんが大人になろうと思わなくてもいい』(7巻より)


もう

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である。実に尊い。けしからん。「何を生意気に」という時期をぶっ飛ばして、そんな急に大人になられても困るのである。私が個人単位で。

そうして相も変わらずソーシャルディスタンスな末、辿り着いたラスト。

何かを定義する時必要なのは「いかに深く共感できる表現か」その上で、このラスト、やさしい言葉で綴られた最後のセリフには余白がある。人によって好きに言葉を当てはめることができる、そんなゆとりを感じた。いい加減ネタバレヤメロと目をつけられないように、これで最後のネタバレにする。


『今私があなたの生きる多様な世界に属していること あなたの存在によって 私の世界がどんどん広がっていっていること うれしいよ ありがとう あいしてる だいすきよ しあわせだな を ひとつにして』

『                 』(9巻より)


↑ここである。もちろん原作者の言葉にわぁっとなったが、同時に数多可能性を見出した。おこがましくも私なら、そうだな『今のあなたに出会えてよかった』かなぁ。

「真っ白」という言葉がある。ただの「白」とは一線を画す、例えるなら漂白剤、純白、まだ足跡のついていない積雪。この度この「真っ白」を文字って、私の中で「真っ修ろ(まっしゅろ)」という造語が誕生した。真っ白との違いは『表面的な、可視化できる白さではなく、内側からくすみ、よどみを取り除いた』もので、『精神的な白さ、輝きを取り戻す様。類義語は浄化』である。


何かに夢中になっている時、雑念は排除される。精一杯己のできる精一杯をひた走る姿に心が洗われる。平仮名の多用や、端紙をちぎって渡すようなあとがきもいい(勝手に余白を感じて作中のセリフをいじるなんて暴挙は、このあとがきがなければとてもできなかった)

長々と書いてきたが、やさしいラスト、ぜひあなた自身の目で確かめていただきたい。そうしていつの日か『真修の話をしよう』が通じたらうれしい。


真っ修ろな笑顔がたくさん増えますように。背筋の伸びるような、清廉な朝に。









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