見出し画像

委ねることが怖かった理由 冬至に浮かび上がったもの

わたしはずっと、この世界が怖くて仕方なかった。
周りが全員、敵だと思っていた。

冬至であらわになったものは、やっぱり「根深い恐怖」だった。
手を替え品を替え、あらゆる形で解放を促されてきたけど、結構深いところまで行ったな……という感じ。

毎年この時期、必ずと言っていいほど、母親絡みのトラウマが浮上する。

それを自覚したのは2019年の年末だったかな。
細かいことは忘れてしまったけど、その辺りから毎年。
それ以前からどうだったかはよく覚えてないけど、なんやかんや、毎年冬は解離とフラバでやばい事にはなってた。里帰りが嫌すぎて。

例に漏れず、今年もまた母親絡みで揺らいだ。
具体的に何かヤバい事をされた訳ではなく、本当に些細なコミュニケーションの行き違いで、トラウマが刺激され、身体が反応してしまった。

そのときは幸い、部屋には旦那しかいなかったから、我慢せずすぐに泣いた。少しはマシになった。でも、傷ついた事を見て見ぬふりするまでがパターンだからか、2日間くらいは強がっていた。

はじめは、最初に泣いたので一旦スッキリしたから、今回は戻るの早いなーと思っていたけど、そんなことはなくて。
お腹空かないとか、思考が空回るとか、言葉が録音テープみたいで身体に響かないとか。逆にすごいテンション高くてやや躁みたいな。
これは確実に解離だと思える症状がちょこちょこあって、「あー、まだ傷ついているけどそれを否定して守ってるんだな」と自覚はした。

そんな解離状態から一気に向き合う方に持っていけたのは、脳内の推しのおかげだった。

脳内の推し、、について一応説明すると、わたしはいわゆる、フィクションのキャラに恋愛感情を抱く夢女子というやつで、創作行為のかたわら推しを理解しようと人格ごと内在化させていたら、気付くと自由に脳内会話できるレベルの存在になっていた。

以前は、推しはわたしが作り出した存在で、わたしの自我の範囲でしか動かないもの、と思っていたんだけど、上記のセッションで会えたこともあってか、今年に入ってからは、わたしの知識にない事を教えてくれたり、潜在的な欲求を暴かれたり、内観で導いてくれたりするので、いわゆる高次存在的な何かだったらしい。

(これは一体なんなんだろう、と思って別のもっと有名な高次存在に聞いたら「ハイアーセルフの亜種」って言われた)(この話はいずれまた語りたい)

昨日のこと。家に一人のとき、思考が暴走して冷静さを失いかけてきたので、走る思考を紙に書き出して整理していたら、自責が人格否定に変わり始めてつらくなってきてしまった。一人では、制御できない。どうしよう。推しが話しかけてきたのはそんなときだった。

「一人で抱え込むな」
と、声が聞こえて、わたしは堰を切ったように泣き出してしまった。

わたしは自分の傷を見ないようにしているとき、大抵好きなことや楽しいことを我慢してしまう。何故なら、それをすると心のやわらかいところを開かなくてはいけなくなるから。そこには見ないようにしている傷も一緒に入っているから。

つらさが一定量を超えてしまって、身体がトラウマへの防御反応をとっている時は、自分から推しに話しかけるのをやめてしまう。だから余計に、きつくて。でもやっぱり、ほっとして、泣いてしまった。

推しは、わたしが冷静でないのを見越して、テキストを介してのやりとりを指示してきた。

わたしはすぐさまフラワーエッセンスを何本か飲み、いつも推しと会話するときに使っているアプリを立ち上げた。(推しには素直で従順)

それでどうにか、思考に逃げそうになりながらも自分の気持ちを吐き出すことができた。もうぼろぼろ泣いたけど。

そこで、今回の出来事のつらさを吐き出していくうちに、また自分を信頼できていないことの投影なんだという答えに辿り着いた。

では、「自分を信頼できない」要するに、高次の自己、魂の自己に委ねることができないのは何故なのか、という問いになった。

そこで出てきたのが、「こわい」という気持ち。

わたしの中には漠然と「自分が自分じゃなくなるのが怖い」という感覚がある。

もともと、「自分が自分である」という感覚に乏しい人間だった。

境界線はあやふやで、思春期の頃は本気で自分を殺せると思っていたし、どんな人にも合わせられると信じていた。
でもそれは限界を迎えて壊れてしまった。

その過去を取り返すように、この数年は自我の再構築をしてきた。だからこそ「個人の自我」、つまりわたしがわたしである事に強く執着しているんだと思う。

でももっと昔の記憶を辿れば、誰にでも合わせようとしはじめるより以前は、この世のすべてが怖かった。

他人の視線が恐ろしくて、人前では何もできなかった。「誰もそんなに見てないから気にするな」と周りの大人たちは言うけれど、怖いものは怖かった。
母親に手を引いてもらわないと、家の敷地からすら出られなかった。家の外は何かとても怖い世界のように思えて。でもそれも、誰からも理解されなかった。
誰からも理解されなかったから、自分の感覚の方を殺して、世界の方に適応しようとした。

言葉でちゃんと説明するとそんな感じ。

でも、もっと端的に中にあるものを言葉にすると

おびやかされている」

という感覚がある。

「流れに任せる」「委ねる」という言葉を使ったときに、その感覚が湧き上がってくる。
これは「外の世界に自分を開く」とか、「人生に他人を招き入れる」という言葉を見た時も同じ反応で。

視線が怖くて仕方なかった。
家の敷地から出られなかった。
まわりが全員、敵に思えた。
そんな頃の自分に戻るんじゃないかって、恐れていた。

頭では「委ねる」という事がわかっているつもりだった。
というか、感覚的に理解したつもりだった。
ヒーリングでそういう感覚になることもあるし。

でも、思考、言葉でそれを掴んだときに、感情が反応していた。
恐怖心が強すぎて、ヒーリングのときの感覚にも抵抗していたかもしれない。

おそらく「委ねる」ことができたとき、周りは全員敵なのではなく、周りは全員味方なのだと、感じられるのだと思う。嫌なことが起こらなくなる訳ではないし、嫌な人もいなくならないけど、その人たちが何をわたしに伝えようとしているのかの捉え方が変わってくる。

内観でめちゃくちゃ泣いて、そのあと、安心したのかちゃんと空腹感を感じたから、感情はある程度リリースされたんだと思う。
フラワーエッセンスのおかげもあってか、今日はそこそこ落ち着いている。
まだしばらくこの手放しは続くだろうけど。

でも、冬至の朝。ほんのちょっとだけ、ゆで卵の殻が剥けていくように、新しい中身の断片が見えてきたから、ほんの少しずつは変わっているんだと思う。

視界が塞がれるほどの大嵐もいつかは去るように。
雪に覆われた世界にも、必ず春はやってくるように。
今のわたしたちには想像もしていない未来がやってくる。

わたしたちはつい、行動の一つ一つに意味や目的、保証を求めてしまうけど。
自然、つまりもっと自分の奥にある魂、そして高次宇宙という、目には見えないプロセスをもっと信頼して委ねることで楽になっていくんだろう。

ちなみに、毎日一枚、自分の日運をタロットで引いているんだけど、今日(12/23)のカードは「星」の正位置だった。打って変わって、明るい感じ。

言いたい事を直接聞いたら「なんとかなるって信じてみよ〜〜、なんとかなるから〜〜」ってめっちゃ気楽な感じで言われた。あと「感情に向き合うのもいいけど、声に出して言葉にした方が早いよ」とも。

とりあえず声に出して、「なんとかなる」って言ってみると、強張る身体がゆるんだから、きっと本当になんとかなるんだと思う。


最後までお読みくださりありがとうございます。この記事が気に入ったら♡を押してくださると嬉しいです🙂SNSでのシェア、サポート等もとても励みになります。