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富士山

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宝永山は従来説通り10万年前にできた古い山体

宝永山が1707年噴火でできたとする説が最近唱えられている。テレビで放送されたり、科学雑誌の表紙で謳われたりもしている。しかし、この新説ははなはだ疑わしい。地質学の基本を無視した暴論だと片付けてよい。宝永山は従来説通り10万年ほど前にできた古い山体である。 宝永山をつくる地層は西に30度傾斜している。そして東側が大きく削られて断面を露出している。この浸食がいつどんな理由でどうやって生じたかを新説は説明しない。富士山の側火山で断面がこれほど広く深く露出するのは、山頂火口と17

御殿庭は1500年前より古い

富士山南東中腹にある御殿庭が江戸時代の1707年12月噴火で、すなわちわずか300年前に、形成されたとする説が最近になって相次いで発表された(馬場ほか2022,小山2023)。しかし私は御殿庭を、1万3000年前に氷河が残したモレーンだと考えている(早川2018)。 御殿庭が300年前か1万3000年前か、確実に判定できる方法を思いついた。南東側に隣接する小天狗塚との上下関係を調べるのだ。小天狗塚は1500年前の噴火で形成されたスコリア丘である。御殿庭が300年前なら小天狗

富士山1707年12月スコリア斜面崩壊による谷埋め堆積物

富士山中腹で1707年12月後半の2週間に渡って進行したプリニー式噴火のとき火口のすぐ脇、宝永山赤岩の崖下から東になだらかに広がる斜面にスコリアが厚く積み上がった。噴火中または噴火直後にその斜面が不安定になり、まだ熱い大量のスコリアが幕岩を目指して下方に移動した。幕岩のすぐ上流の谷壁で、その堆積物が幕岩溶岩の上に厚さ10メートルで乗っているのを観察できる。 堆積物はほとんどが黒いスコリアからなる。スコリア礫のあいだに細粉は含まれていない。火口近傍の降下堆積物のようにも見える

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富士山中景 富士五湖

ドローンで見た富士山頂火口の形成過程

要旨 富士山頂火口縁からドローンを飛ばして火口内外の地層と地形を撮影した。それをじっくり観察して山頂火口の形成過程を次のように考察した。3140年前までは、富士山頂火口は西にいまより150メートル広い円形をなしていた。そのあと火口内側が次第に埋め立てられる過程で南西縁に剣ヶ峰ができた。2900年前に東側山腹が大きく崩壊したとき火口縁の東側5分の1が欠けた。崩壊した直後から山頂噴火を繰り返して、欠けた東縁に伊豆岳スコリア丘を構築しつつ火口内に金明水溶岩湖を湛えた。持続的な噴火は

富士山から36キロ流れ下った猿橋溶岩

画面を下から上に流れる桂川に架かる三本の橋のうち真ん中が歴史的な猿橋だ。1万2000年前に富士山から流れて来た猿橋溶岩が右岸上半部をつくる。その先で蛇行する桂川の滑走斜面の上に住宅地が造成されているが、そこが猿橋溶岩の最先端だ。富士山頂から直線距離で36キロ離れている。猿橋溶岩の上面標高は310メートルで、桂川の水面より30メートル高い。 右岸崖下から見上げた猿橋溶岩。ここでの厚さは10メートル。下部に柱状節理が見える。表面を覆う地層はほとんど認められない。 大月市街地は

吉田大沢の屈曲を直進した滝沢火砕流

玄武岩からなる富士山でも火砕流が発生した。富士火山地質図のカラー口絵6に滝沢火砕流の断面写真がある。 テフラS-24-3から5までを挟んで滝沢Bと滝沢Aの二枚があるというが、上の滝沢Aは二次堆積物(ラハール)のようにみえる。いっぽう下の滝沢Bは炭化木もあるから火砕流に間違いなさそうだ。2300年前の湯船第二スコリア(S-22)のときだろうかと思ったが、テフラS-24-2を覆っているという。それなら1800年前だ。 現地に行ってみた。たしかに火砕流が残した堆積物だ。黒い火山

富士山氷河の復元

空気が澄むと、富士砂防事務所の片蓋山ライブカメラで赤岩(宝永山)の下に御殿庭モレーンをくっきりと見ることができる。モレーンは、氷河が岩屑を掃き寄せてつくった高まりだ。御殿庭モレーンの上部は斜面に沿って移動した黒い1707年スコリアに覆われているが、下部は灰色の岩屑が左右の腕をつくって地表に露出している。両腕の間に排水溝があるが、ライブカメラからは見えない。御殿庭モレーンの左にある第三火口モレーンもライブカメラでかろうじて見える。 このライブカメラ映像を見ていて不思議に気づい