二 、サクラはサクが、青が散る
◆1993年、4月。入学式。
冴子は、来なかった。同じ高校から弘樹と同じく指定校推薦で入学したクロから「冴子、海外へ行ったらしいよ、ハハハ」と、いつもの軽い口調で聞かされた時のことは、今でも鮮明に覚えている。
待ち合わせの約束をしたのは七人。しかし、集まったのは六人。信じられなかった。場所は中央棟前の石碑の前。「大學は學問を通じての人間形成の場である」と建学の理念が書かれているあの石の前だった。昨年十一月の推薦入試で、たまたま出会った七人だったのだが、冴子が放った一言によってまるで運命の出会いかの様な錯覚を覚えたのだ。
「来年無事に合格してたら、またみんなでこの石の前に集まらない?ちょうど桜が咲く入学式の時に!」
真っ白なコートをふわりと一回転させながら、彼女はそう言ったんだ。それはまるで、小説か映画のワンシーンの様に完璧だった。長身でスタイルの良い冴子は、いわゆる世にいう美人ではなかったかもしれない。けれど、彼女の愛嬌ある洗練された笑顔で語りかけられると、その場にいる全てのものが頷いてしまうような光に包まれた。頭上高い所で、鳥が高い声で鳴いた。
「よしっ約束だ!みんな忘れるなよ」
俺がリーダーだと言わんばかりの浅黒い肌をしたルーが呼びかけると、リョウは当然の如く指をグッと突き出す。二人はラグビーで有名な茨城の高校の出身。お嬢様学校出身の真理と美穂子も、隣でクスクスと笑いながら頷いている。そして、茨城組に後れをとったクロと僕も、冴子の周りではしゃいで見せた。心がハネるこの感覚は久しぶりだった。半年前に親が倒れ、映画で有名なアメリカの大学UCLAへ行くことを諦めた時から、弘樹はどこか冷めていたからだ。
帰国子女だという冴子は、話す時に身振りを交えて話す。嬉しそうな彼女は小刻みに体を揺らし、サラサラの髪がふわりと宙を舞った。僕の閉じかけていた心の扉の奥の方が、じんと熱くなった気がしたものだった。
翌年一月。入試の英語の結果が良くなかったんだろう。担任から呼び出され、入学前にしっかり勉強しとけと辞書でこずかれた。クラスに戻ると、ほとんどのメンバーは受験を前にしてどことなくピリピリしていた。「推薦組」(裏切者)と呼ばれる、つまりは楽をして逃げたと思われている僕らは、ひたすら本を読むかバイトに明け暮れるしかなかった。周りが必死にセンター試験対策をしている隣で、隠れるように読んでいたのは、宮本輝の「青が散る」。大学の入学式から始まる青春小説だ。読んでいると、昔テレビドラマで観ていた印象と全く変わっていた。まるで自分のドラマが大きく動き出すようで、気分はぐんぐんと上がっていった。今後どうすれば良いか、手掛かりすら掴めなくなっていた映画への道よりも、土砂を運びテニスコートを作る所から始まる物語の方がキラキラしたものに見えた。18歳の僕にとって、完全なる傑作だった。そしてその傑作は「今、俺の手の中にある!」と確信さえした。
だから、だからクロから冴子のことを聞かされた時は思い切りうろたえた。嘘だと思ったし、信じたくなかった。しかも、なんでお前にそれを教えてもらわなきゃいけねぇんだと、へらへらしたクロに掴みかかりそうになった。でも、いつもルゥ大柴ばりのギャグで盛り上げるはずのあいつが、ルーが下を向いて、ただ黙っていたから、思いとどまることが出来たんだ。
「俺、テニスサークルに入ることにしたぜ。んで、当然冬はスキー。ノリのいい先輩たちに誘われちゃってさ。今日もこれから飲みで奢ってくれるらしいから、一緒にいこうぜ」
クロはさして冴子のことは気にしてない様子だった。「人生いろいろあるしな、いいな冴子。憧れの海外ライフかぁ」なんて調子だ。
「いかねぇよ」
ルーが突然キッとこちらに目を向けて言う。
「俺、将来マスコミ関係の仕事したいからその専門のスクールにも通う。だから、サークルには入らねえ」
冴子とはもう会えない、そのことが何か彼に決意させたようにも見えた。そういえば、あの時も確かルーが一番最初に冴子に声をかけたんだった、とその時その目を見て思い出した。じゃあなと去っていくルーの後をリョウが追っていく。リョウは体育会のアメフト部に決めたらしい。肩をイカらせながらガニ股で歩いていくルーの後ろ姿が寂しかった。
「俺もバイトあるから、帰るわ」
半ば逃げる様に、弘樹は正門に向かって歩き出す。クロにも、遅れてきた真理と美穂子にも、何を話したら良いかなんてわからなくなっていた。多分、情けない顔をしているであろう自分を見せたくなかったのだ。ふと、一年前アメリカ行きを断念した時の気持ちが甦った。一緒にTOFELを勉強していた親友のツヨシはUCバークレー大学行きを決め、先日成田を発っていた。
例え何があろうとも、寒さを越した桜は、春にその花を咲かせる。短い期間ではあるが、見事に咲き切る。そういうものだろう。僕らの頭上にも推薦とはいえ、サクラはサイタ。けれど、どうなんだろう。また始まる前に、終わってしまったんだろうか……。
実は、弘樹はまだ誰にもちゃんと伝えていなかった。親にも姉にも、数少ない友人たちにも「映画をやってみたい」と、「その道に進んでみたいんだ」と言うことが出来ないでいた。勇気が湧かなかった。
駅へ向かう大通りを避け、一本奥の団地の銀杏並木通りへ向かう。角を曲がると、長い一本道の遠くから集団が来るのが見えた。一様にくたびれた様子で、あてもなく俯きながらあるく人の群れだ。年齢も性別もばらばらで、ゆっくり行進している。彼らは黒ずんだ灰色の服を着ていた。
かつてアジア最大とも言われていたこの巨大な松原団地も、今では半数以上が空き家となり、生気が失われている。グレーの集団は、その残り少ない光を奪いながら、何かススのようなものを吐き出していく。それは彼らの薄汚れた服から滲み出していて、団地全体を色のない粒子が包み込んでいった。得体の知れない生き物のように思えた。
全ては不安のせいなのだ。先行き不透明な陰鬱な思いが、グレーな集団を更に濁らせ、暗く沈ませていくんだろう。
弘樹は臆病だった。この集団に飲み込まれていくのが怖くて、走って駅へと向かった。
(2018年ヴェネツィア「両国くんの事情」に続く)
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