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もっとサッカーの話がしたかったです

「恩師と呼べるような人っていますか」という質問に、ぱっと答えられる人はどれくらいいるんだろうか。僕の場合、「あの先生か…、あのコーチか…、いやいや、やっぱり…」と考えてみるも、人に恵まれているおかげですぐには決められない。そもそもひとりに決める必要もなく、思い浮かんだ人はきっとみな恩師ということになるんだろう。

そのなかでひとりだけ、もう会うことが叶わない人がいる。


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昨年の夏、以前からいつかお会いしたいと思っていたサッカー指導者の方と、グランドでご挨拶することができた。首都圏のとあるクラブの代表で、水戸・ひたちなかで自分たちが主催した中学1年生の夏のフェス(大会)に、選手を連れて遠征に来られていた。

その方は、僕が高校時代にお世話になった恩師、中瀬古さんと昔から親交があった。初めて連絡を取ったのは中瀬古さんが亡くなった年のことで、その方がTwitterで中瀬古さんを偲ぶ投稿をされていて、恐縮ながらそれに返信をした。

その後、いつかとは思いつつ交流がなかったのだけど、ついに昨年、ご挨拶することがかなったというわけだ。数年ぶりに、人と恩師の話をした。


改めて、『恩師』というのは僕が高校時代にディアブロッサ高田FCでお世話になった、中瀬古宣夫監督のこと。

奈良県を拠点に指導者として長く選手を育て、プロにも大勢輩出し、全国に中瀬古さんを尊敬し慕うサッカー関係者がいる。ちなみに「中瀬古先生」と呼ばれていることが多いのだけど、僕は高校生の頃そう呼んでいたように「中瀬古さん」と呼んでいる。


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その夏の日の帰り道、運転する車の中で中瀬古さんのことを思い出していた。僕の知る中瀬古さんは、晩年にほど近い時期という事になる。

試合の時はベンチから立ってピッチ内に声をかけることは少なく、ハーフタイムになると僕らに”話をする”。いつも言うのは「相手をよく見て、駆け引きをしなさい」「あとは思ったように、自由にやりなさい」ということ。

僕が3年生になる頃には、中瀬古さんは1年生を全国各地のさまざまな相手のところに引き連れて”とことん”鍛えていたので、直接指導を受けることが少なくなっていたけれど、グランドで話すたびに「隼、調子はどうだ」と声をかけてくれた。

そんな曖昧な思い出たちのなかでひとつ、胸の中で大事にとってある記憶がある。

高校3年生のある日の練習試合、たしか滋賀県への遠征で、その日は1年生も同じ会場だったので中瀬古さんがプレーを見てくれていた。とはいえ、何かを言われたという覚えはない。

ただ、その日に中瀬古さんが、1年生の試合の合間に僕の話をしたというのを人づてに知ったのだ。

「君らはもっと、とことんやらんといかん。3年生の隼がおるやろう。1年生の時は、いまの君らよりはるかに下手くそやった。でもめげずに人一倍ボールに触ってきた。不器用とわかってるから、ずっと練習しとる。試合の合間にも。そうして気がついたら、チームにいないと困る選手になった。いいか、とことんやらんといかんぞ。」

隼さんのこと、そんな風に聞きましたと1年生の後輩に言われた。

「俺でもそれくらいにはなれるってことやから、君らはもっと上手くなれるぞってことを言ってるんやで、それは。」と後輩には言い、そのあと帰りの電車の中で涙がこぼれそうなのを我慢した。

本当に、もはや圧倒的に下手くそだった。どうすれば自分に自信が持てるのか分からなかった。不器用なやつは時間をかけなきゃとたくさんボールを触った。グランドに早く来て練習した。練習試合の合間の時間にだって、他に誰もしてなくても、ひとりでもボールを触っていた。それしかないんだって思っていた。

当たり前のように、そういうところを見ていてくれていたのだと思う。僕に直接言うわけじゃないというのも、中瀬古さんなのかもしれない。


夏の日が傾く頃、10年前の「認めてもらっていた記憶」を思い出して、車の中で涙がこぼれていた。


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中瀬古さんが亡くなったのは2015年の12月。突然の訃報を受け取った。病気で入院されていることも知らなかった。僕は大学3年生で茨城にいた。

大学生の頃、選手活動と並行して地域の小学生のコーチをしていた。当時から卒業したら大学院に進学して、そこからは指導者の勉強に専念して、その後はサッカー指導者として働きたいとも思っていた。

いつかちゃんと指導者になったら、中瀬古さんと「指導者同士として」サッカーの話をできたらと思っていた。「夢見ていた」という方が近いかもしれない。結局、その「いつか」は来なかった。

少し調べるだけで、様々なサッカー指導者がインタビューの中で自分の原点として語っているのを見つけることができる。年代的に自分より上の方たちへの影響が大きいと思うので、インターネットの中にない「逸話」はきっと数えきれないはず。

そう考えると、自分は「恩師」と呼べるほど、学びきれていないんだと思ってしまう。


もっと早くから、話をたくさん聞きにいけばよかった。学生時代はなかなか地元に帰ることはなかったけど、無理にでも勉強させてもらいに行けばよかった。挨拶に行く時、大学生のときの僕は「僕も子どもたちのコーチをしてるんです」って言う自信がまだなかった。いつかちゃんと仕事にできたら、なんて思っていた。「いつか」はそのうち来ると思っていた。


中瀬古さん、僕もいまサッカー指導者をしています。
もっと、サッカーの話がしたかったです。


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昨年夏に、久々に人と中瀬古さんの話ができたこともあり、今年の年明けには数年ぶりの墓参りに行った。お墓は山道を片道3時間くらい運転するところにあるので、しばらく足が遠のいていた。手を合わせて、ご無沙汰してましたと胸中で唱える。

実際のところ、僕と中瀬古さんが同じチームで過ごした時間はたったの3年なので、僕なんかよりはるかに思い出も思い入れのある方たちが、関西圏を中心にして全国に大勢いる。

中学時代の監督であり、中瀬古さんとともに中学生を指導していたこともある倉内清共先生もそのひとりで、インタビューの中で中瀬古さんのことを語っている。倉内先生も僕にとって恩師で、そして同じく中瀬古さんのことを強く慕っていた。(そもそも、僕が中瀬古さんのいるクラブへ行ったのも倉内先生の影響が大きい。)

中瀬古先生は選手の『心のコップ』を上に向けるのがすごく上手な方でした。普段からよく選手を見ているからでしょうね。いつも抜群のタイミングで、的確な言葉をかけていたのが印象的でした。そういう声かけって、早くてもダメだし、遅くても手遅れになってしまうので、我慢はしつつもタイミングを逃さないのが大事なのですが、中瀬古先生はその見極めが素晴らしく、選手をその気にさせるのがすごくうまかった。

https://reibola.com/column/post3993/

まさに、というか、間違いなく僕自身がそうだった。ああ、急に記憶がよみがえってくる。あれも、あれも、きっとそうだったと『心のコップ』を上に向かせてくれた記憶。

僕がめげずにサッカーを続けられたのは、心のコップが上を向くように、きっと何度も何度も、まだいけるぞと示してくれていたからです。

まだちゃんと、もらった言葉は生きています。

ありがとうございました。
ちゃんと見てくれていて、気にかけてくれていて、ありがとうございました。

そしてやっぱり、もっとサッカーの話がしたかったです。
もっと学びたかったです。

今年も、サッカー指導者としてたくさんの子供たちに触れることになる。
きっと長い時間がかかることだけど、いつかあんな風に、と思ってグランドに立っている。



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サッカーやスポーツの話を書いたnoteまとめ


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