脳内完結エチュード

結局の所、自分の思い込みによって脳内で完結してません?

エチュードと聞くとショパンの革命のエチュードを思い浮かべる。小学4年生のとき、担任の先生がコンクールで弾いたのを聞いて衝撃を受けた。それ以来私のエチュードに革命はつきものだ。

なんか今日「脳内完結エチュード」という言葉が突如降り掛かってきたんだよね。正確には脳内完結革命。タイトルに思わずメモしてしまったわ。



エチュード(étude)はフランス語で練習曲や下絵を指し、下準備のような意味をもつものらしい。初めて知った。革命っていう意味はないけれど、今回ばかりはご愛嬌で許してね。

前々からそして最近考えていることがあって、「それは自分の思い込みで世界が作られているのか」ということ。

自分が愛されているのは事実として人から愛されている以前に自分で自分は愛されていると思いこんでいるからなのか、運が良いのも運が良いと思いこんでいるからなのか。

同じく被害妄想や悲観論で苦しむのも結局、他人は何も言ってないし何もしてないのに勝手に自分が誤解してるだけなのでは。無知と誤解による自分の脳内で勝手に作られた悲劇。思い込みによるバイアス。

この事を考えるきっかけになったのは1年生のときに読んだアドラー心理学の『嫌われる勇気』、また2年生で意味社会学について学んだのも影響が強い。(ここでは割愛する)

それと鴨頭嘉人さんの「そう思ったらそう」という言葉にはっとさせられた。私なら絶対大丈夫、乗り越えられる、そう信じて乗り越えた人生初の鬱。

自分が見たいように世界を見て、聞きたいように世界を聞いて、都合のように解釈する。人間の本能的な営みか。いつの時代でも変わっていない?

だから無理だと思っていたことでもやってみたら思ってたよりできましたみたいな、思い込みと事実現実とが異なる現象が往々にして見られるわけで。

実際どうなんだろうね。分かんないよね。でも思い込みの力は良い意味でも悪い意味でも存在するよね。

〇〇は自分の思い込みを無くせ、筆者の主張だけを整理しろ。

高校生のとき現代文の先生に口酸っぱく何度も言われてた笑。(3年間しごかれた笑)しごかれたと言ってるのもきっと私の解釈にしかすぎなくて、結局の所私は主体的な意味付けによって世界を作っている

だから自らの手で世界を織りなしていくのなら希望論的な世界を私は作りたい。私は愛されているし、運も良い。たくさんの人と言葉に恵まれている。

それで良い。私が望む世界を私自身でできる範囲でも作る。作る努力をする。信じるに尽きる。

もっともっと人間的成長をして、花嫁のように美しく幸せに満ち溢れて祝福される人になる。私なら絶対なれる。絶対になる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?