いい加減怒れよ、キモいお前ら。

発達障害。

アスペルガー。

境界知能。

コミュ障。

KKO。

チー牛。

子供部屋おじおば。

「ケーキの切れない〇〇」。

いま・その時点の社会の自称多数派の振る舞いに従わないというだけで、今までいろいろなレッテル貼られてきたな。

最近は「生きづらさに名前をつけてあげてるだけ」みたいな上から目線のクソパターナリズムをさも思慮深さのように語る自称支援者も多い。

互助会だとか自助グループってやつはすべて最終的に「周囲の社会人サマにヘイコラして、ご迷惑おかけしないようにシツケられましょう」って具合の洗脳会しかない。

レッテルを勝手に貼られて、そのレッテルがなんの役にも立ってないのに「お前のため」呼ばわりされて、対価も税金も払ってるのに半端者扱いされて、礼儀正しくしたり人に優しくすると「弱さ」「他人に対する責任のなさ」みたいな具合に付け入られて、とにかく社会から指さされ続けて・・・
なんで、そんなに俺たちのことが嫌いな社会のルールに従わないといけないんだろうな?

自分が「私は社会の多数派としてあらゆる無数の規範からして「ふつう」であることを証明します!」なんてやったり相互監視しあってる状態こそ、すごい病的だろ。

脳性麻痺の人々が70年代に「青い芝の会」って言う運動をやっていたのを知った時、発達障害者らにはこれが必要だって思ったよ。発達障害者版、アスペ版の青い芝の会。

どんなに発達障害者やアスペのコミュニケーションが社会の自称多数派にとってキモがられようが、非効率で非生産的だと言われようが、不健全だと言われようが、それをやり続けるべきだ。

多数派の、自分が普通だと思い込んでる人々のルールやらマナーやらも、過去に「発明・創作・そういうことにした」瞬間があるわけだろ?なんで発達障害者やコミュ障が今それをやっちゃいけないんだ?

何かあるたびに、自称多数派は、色々な不安材料を発達障害者やアスペらに求めてきたよな。少し前の「ケーキの切れない〜」もそうだろ。アレ読んで、少し物事が分かった気になって、だが実際は「うちは普通でよかった」って思うだけ。

それで、外部に不安材料を求め切れなくなったら?今度は自分たちの社会の底辺から足切りして、「氷河期世代はテロ予備軍!」「子供部屋おじおばきもい!」と作り出すだけ。次はAIの発展でかなりの人が切り捨てられるだろうけど、どんなレッテル貼るんだろうな?

なあ、この記事を見てる発達障害やアスペがいたら、いい加減怒ろうぜ。少しでいいから怒ってくれよ。

もちろん、それぞれがレッテルごとに連帯できるみたいな夢は見てないよ。でもそれぞれの立場でまずは怒ってくれよ。

こんなに、なんか、後天的に卑屈にされた集団いないだろ。
反出生とか三十になったら自殺とかそういうネタに食いつく前に、ちょっとでも生き生きと一度怒ってくれよ。
十代しゃべり場みたいに空回り気味でも、いいから。キモくていいんだよ。
むしろ、「自分のコミュニケーションや生活はキモくありません」と思い込んでる方がキモいんだって言ったれよ。
俺もお前もキモいんだって。
空気読んで人をいじめる本末転倒な社会を構成してる空気読みのお前らも病気だって。

「青い芝の会」を100%見習えとか思わないが、50年前の麻痺者たちが自分にできて世の中を動かそうとした、あの精神を1%でも引き継いでみようぜ。あるいは在日が差別に反抗して自分達の学校や社会を新たに作り出した事例でもいい。
そういう泥臭さ、「キモさ」を少しでも見直す。

そこからしか、発達障害者やアスペ他いろいろのレッテルへの抵抗と破壊、そして新しい「多様性ある」社会なんてやつはできないだろ。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?