ある島に、自分たちが生み出したありのままの思考や感情を尊重しながら、ごく自然な生活を送っていた人々がいました。 しかし、ある時、背広を着た人がやってきました。「今の考えでは金もうけができない」「あなたたちは違いを放置していて野蛮だ。おかしい」「今の生活は客観的にみて幸せではない」などと吹き込み、私たちの生活を変えてしまいました。 そうして、背広を着た人の言うがままになった人々がどんな生活を送っているか? その背広を着た人の工場や事務所で一日中働き続けています。そうすること
よく言われる「昔は、いまでいう発達障害者にも居場所や仕事があった」っていう変な擁護論をみて、現状に即してないと思うけどさ。 もしそうなんだとしたらじゃあいつから差別されるようになったの? 単純にいって、40~50年前までは「発達障害者」も中卒とかで職人やったりオフィスのお茶汲みやったり映画の寅さんみたいな生活してたり、それで生計立てられて結婚も平気で出来てたとしましょう。 その時は「言われたことしか出来ない」「空気をあまり読めない」「粗暴なところがある」「ぼんやりしてい
定型発達は、単なる相対的な定義ではなく、発達障害との絶対的な対立軸として発達障害と同じくらい徹底的に研究されてほしい。 「これまでの学問は全てそうだった」とか「それは〇〇心理学」みたいな屁理屈ではなく、本当に「定型発達学」みたいに新しくフラットな一つの学問として独立してほしい。 定型発達が正常なコミュニケーションだと思っている会話や行動に「どうしてそう思ったの?」「それはどういう理路でそうなったの?」って、専門家や研究者が一々突っ込んで欲しい。発達障害者が普段そうされてい
発達障害。 アスペルガー。 境界知能。 コミュ障。 KKO。 チー牛。 子供部屋おじおば。 「ケーキの切れない〇〇」。 いま・その時点の社会の自称多数派の振る舞いに従わないというだけで、今までいろいろなレッテル貼られてきたな。 最近は「生きづらさに名前をつけてあげてるだけ」みたいな上から目線のクソパターナリズムをさも思慮深さのように語る自称支援者も多い。 互助会だとか自助グループってやつはすべて最終的に「周囲の社会人サマにヘイコラして、ご迷惑おかけしないよ
・「発達障害」や「アスペルガー」は人間の新しい形式であるということを周知する。 ・近年の「発達障害」という概念の広まりは発達障害者を救うものではなく、社会における差別やレッテル張りを加速させるものにしかなっていなかった。 ・診断がつくようになり本人の困りに説明が付く、のではなく、社会による忌避の手段に「あいつは発達障害だから、アスペだから」というレッテル張りが追加された。 ・発達障害と言う用語を、特に「障害」を、別の意味に取り換えることを議論する。(現状、この記事では