町田泰彦

建築、文章、映像、陶芸を出口入口にしながら、世界について少しでも深く感じたいと願ってい…

町田泰彦

建築、文章、映像、陶芸を出口入口にしながら、世界について少しでも深く感じたいと願っています

最近の記事

怪物

反射、反転、最近では回生(リジェネラティブ)という言葉がわれわれ劇団きこりにとって主題となっておりますが、是枝監督の『怪物』という映画を見て、転生ということを再度考えるようになりました。 輪廻転生というのは、ある種、前世と次世を持ち出すことで今回の生をどうにかして慰める必要がある、という差し迫った必要性から生まれた思想だと思う時があります。しかし、自己の本体と宇宙の本体が本質的には一体であるのだとすれば、転生というのはひとつの生で起きて巡り廻るものだとした方がなんとなく腑に

    • 再生

      声のなるほうへ - その4

      声による往復書簡「声のなるほうへ」 東野翠れん X 町田泰彦 『土と土が出会うところ』「喫茶ウェリント」から一部を朗読しています

      • 声のなるほうへ - その3

        東野翠れん 『土と土が出会うところ』から「みずろく」 町田泰彦 「なめとこ山の熊」宮沢賢治著

        • 「声のなるほうへ」について

          僕が東野翠れんさん(以下敬称略)と初めて会ったのは彼女が高校生の頃だと思うのでもう20年以上前になります。スイスのチューリッヒで出会った友人に連れられて彼女の母親に会いに行った時、彼女も学校から帰っていて家のダイニングテーブルで宿題かなにかをやっていました。翠れんと「はじめまして」と言葉を交わした覚えはないのですが、髪の毛が綺麗に赤く染められていて、それがはっとするほど鮮やかで、今も記憶のその場所は、綺麗に染め分けられています。 翠れんの母親はイスラエルの人で、家は、ユダヤ

          再生

          声のなるほうへ - その2

          東野翠れんとの声による往復書簡 声のなるほうへ 『土と土が出会うところ』より「水と水が出会うところ」から一部抜粋

          声のなるほうへ - その2

          再生

          声のなるほうへ - その1

          東野翠れんと町田泰彦との声の往復書簡「声のなるほうへ」。とりとめのない相談ごとだったり朗読の練習も公開します。カバー写真は、東野翠れんの著書「花、音、光」よりお借りしました

          声のなるほうへ - その1

          声のなるほうへ - その1

          「土と土が出会うところ」 - あとがき

          小さい頃から父が転勤を繰り返していたため、それに伴って住む場所がころころと変わってきた。それはそれで生活が定期的にリセットされる気 楽さみたいなのを感じていたかと思う。季節の風が吹けば仕事を抱えながらも旅に出かけてしまったり、人間関係において薄情であったりするというのはその名残なのかもしれないなぁ、と自己を弁護してみたりするのだけれど、それでも家というものを持つようになって、もしくは子どもができてようやく生活が土地に根付くことの面白さみたいなものを知るようになった。もともと土

          「土と土が出会うところ」 - あとがき

          「土と土が出会うところ」 - はじめに

          誰のものでもない場所をどうにか手元にたぐり寄せたくって、私は、いろいろなことを試しています。時には、建築土木をしてみたり、映画を撮ってみたり、今回のように文章を書いてみたり。ようやく指の先にちょこんと引っかかるような感触があったとしても、その手を伸ばしているのが私だということが意識されるので、それはすぐに隠れて消えてしまいます。そうなると、残念、という気持ちが湧かないわけでもないのですが、私は、私の手に、お気に入りのマグカップを持たせてコーヒーを注ぎ、できるだけ腹が座るようう

          「土と土が出会うところ」 - はじめに

          レスラー

          またしても人間、それしか撮っていない映画だけれどもその人間たるや。今の時代「USA、USA、USA」というかけ声を背負えるひとつの肉体、ひとつの精神が果たしてあるのだろうか? ミッキー・ロークが演じるランディ・ロビンソンは、生活のためにスーパーマーケットで働く。同僚には「ロビン」、プライベートの友人には「ランディ」と好意的に呼ばれる。そんな彼の本当の仕事場は、もう一つの売り場であるリングである。控室からリングへと歩くランディの姿は控室から売り場へと歩く姿とは対照的に描かれて

          ファニーとアレクサンデル

          スウェーデンのイングマール・ベルイマンが、自身の故郷であるウプサラを舞台に撮りあげた自伝的作品『ファニーとアレクサンデル』について少し書く。 劇場を営む一族の2年間を、アレクサンデルとその妹のファニーの目を通して描かれているこの映画は、1907年のクリスマスイブのシーンから始まる。劇場主で俳優のオスカルや母で女優でもあるエミリーらの演じるキリスト降誕劇は毎年恒例となっているらしく、それはそれは絢爛豪華で華やかなのだけれども、しかし、時代の背景もあってか不穏な空気が朝もやのご

          ファニーとアレクサンデル

          森の映画館

          森のどこかにあると伝えられるおもちゃのようなトーテムポールを探しに出かける。森は深いが、人間にとっての外敵はほとんどいない。蛇も、クマも、狼もいない人間にとって楽園のようなこの土地で、私は、ひたすらに歩く。そして、樹木に生った果実をひとつもぎって口にする。すると、甘くていけない味が口内外問わず充満する。そのイケナサは私を執拗に責め立てる。人工的に植えられたトウモロコシの実の甘さに感じる罪悪感とも違う、次を約束されぬその場限りの罪の意識、しかし、豊かな罪の意識に責め立てられる。

          森の映画館

          方丈記私記[平成]

          No.003 / 2017.6.18 東日本大震災が起きたそのとき、私は、文字通り揺れのまっただ中にいたからどこが震源地なのかと東を向くことも西を向くことも頭に浮かばず、ただただ、建てたばかりの家が崩れぬことを身体から絞り出すような気持ちで祈った、その祈ったという感情を、今のことのように思い出す。 あの日、妻の腕の中には1歳かそこらの幼子がいて、その姉は保育園に行ったまま姿はなかった。揺れは何分か続き、おさまったと思ったらまた大きく揺れること数回、幾度そんなことが繰り返さ

          方丈記私記[平成]

          方丈記私記[平成]

          No.002 / 2017.5.15 「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明『方丈記』の鑑賞でも、また、解釈でもない。それは、私の、経験なのだ」(堀田善衛「方丈記私記」) この文章を堀田善衛は『方丈記私記』の頭に置いた。 私も、そのままこう書いておこうと思う。 私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、鴨長明の『方丈記』もしくは堀田善衛『方丈記私記』の鑑賞でも、また、解釈でもない。それは、私の、経験なのだ。 さて、なぜ今『

          方丈記私記[平成]

          オンライン上映会を終えて

          はじめての試みとしておこなった「オンライン上映会」が無事に終わりました。それで、改めて「映画」がこの時代にやれること、みたいなことに気づかされたので、書いておきます 映画って、一般的には「興奮」だったり「感動」だったり、もしくは「情報」だったりを観る側が求めて選ぶのが普通ですね。言ってしまえば受けることを前提に「外」から映画を見る行為です。でも、実は映画にはもっと違う役割があって、具体的に言うと「鏡」としての映画を「内」にのぞき観るために存在していたりします 映画そのもの

          オンライン上映会を終えて

          『ハトを、飛ばす』オンライン上映後のトーク

          映画『ハトを、飛ばす』のオンライン上映会の後の、町田と川上氏とのトーク

          『ハトを、飛ばす』オンライン上映後のトーク

          『ハトを、飛ばす』オンライン上映後のトーク

          方丈記私記[平成]

          No.001 / 2017.3.5 2011年の震災の頃のことを思い返すと、真っ暗な夜空に輝く星の光がまず思い浮かぶ。たぶん、数日後に原発がどかんとなった際に感じたあの底なしの恐ろしさの対比として、あの星の美しさがよけいに記憶の中でまばゆくひかるのだと思う。映画『ハトを、飛ばす』を撮ることは震災前から決まっていたけれど、撮影が開始され、そして映画がどうにもこうにもとりあえず完成したのは、その光と、その得体の知れない恐ろしさがいつまでも私の中にしつこく残っていたからだと思う。

          方丈記私記[平成]