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怪物

反射、反転、最近では回生(リジェネラティブ)という言葉がわれわれ劇団きこりにとって主題となっておりますが、是枝監督の『怪物』という映画を見て、転生ということを再度考えるようになりました。

輪廻転生というのは、ある種、前世と次世を持ち出すことで今回の生をどうにかして慰める必要がある、という差し迫った必要性から生まれた思想だと思う時があります。しかし、自己の本体と宇宙の本体が本質的には一体であるのだとすれば、転生というのはひとつの生で起きて巡り廻るものだとした方がなんとなく腑に落ちる気がします。なぜなら、前世も次世も宇宙的には今この一点に同時にあるはずでしょう。そして、親鸞が言った「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というのは、自分が「善人」だと思っている人間には転がる余地が少ないけれど、鬼に落ちてしまった人には「今この時」に反転する余地がたくさん残されている、ということを言っているような気もします。鬼に落ちて「救われたい」と思い発するその時のその人の言葉は、善人の軽薄な言葉よりも距離が伸びる。鬼に落ちたからこそ、そこから反転した神のような存在となれるのだと思います。

映画『怪物』では、人が「鬼」へと落ちるその過程が丁寧に描かれています。人を鬼へと落とすのはやっぱり善人のしわざで、善人が軽率にやーやーと騒ぎ、追い立てられて鬼は搾り出すようにやーやーと泣く。しかし、社会の側に残れるのは善人の方ですが、転生が起きて別の次元へと移っていけるのは鬼の方だということです。映画の最後、まさに出産シーンのように、母体(バス)から(性別を超えた)人がふたりぽとりと産み落とされました。ふたり軽やかに笑いながらもつれるようにして走っていくその世界は眩しくひかり、そしてなんとも美しい。鬼は別のものへと転生し、新しい世界へと産み落とされたのです。

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