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方丈記私記[平成]

No.001 / 2017.3.5

2011年の震災の頃のことを思い返すと、真っ暗な夜空に輝く星の光がまず思い浮かぶ。たぶん、数日後に原発がどかんとなった際に感じたあの底なしの恐ろしさの対比として、あの星の美しさがよけいに記憶の中でまばゆくひかるのだと思う。映画『ハトを、飛ばす』を撮ることは震災前から決まっていたけれど、撮影が開始され、そして映画がどうにもこうにもとりあえず完成したのは、その光と、その得体の知れない恐ろしさがいつまでも私の中にしつこく残っていたからだと思う。

ミチカケにも書き下ろした『サンコウチョウ』という文章もまた、同じようにその光と、その得体の知れない恐ろしさから派生したように思う。

「恋するあの子のうしろに落とした尾が地面にそのままで、こころ踊って舞を舞う。暗闇の中から飛び出して、ホイ、ホイ、ホイ、夜空に散らばる星となり、百万年後の光源のことなどつゆ知らず。暗イウチハマダ滅亡セヌのなら、目を閉じることにも価値はある。目を閉じると闇がある。一周ぐるりとまわって触れたかったあの子の肩が、その闇にある。その闇のなか、長い長い尾が限度もなく落ち続けている。その落ちた尾を追う者はない。」(ミチカケ/土と土が出会うところ/サンコウチョウからの引用)

「差異」が表現を可能としてくれるのだとしたら、あの光と、あの得体の知れない恐ろしさは確かに平和な日常からかけ離れていたし、全くもって(それまでのあらゆる体験と)違っていた。

けれど、いいおく必要もないと思うけれど、表現するに値する差異は日々平々凡々に繰り返される毎日にだって溢れているはずだ。

鳥が「ツキヒーホシホイホイホイ」と鳴くんだよと益子の陶芸家が教えてくれて、実際に、その鳥がツキヒーホシホイホイホイと鳴いているのを聴き、そう鳴いた鳥は私のなかで改めてサンコウチョウという名が与えられた。今まで聴こえていなかったその鳴き声が私のものとなると、私の家の森で同じ鳥が鳴いていることがある事実に気がつく。

「サンコウチョウが鳴いているね」私は、横にいる者にそう伝える。「ツキヒーホシホイホイホイ」って聴こえないかい、ちょっと得意になってそんなことを君に言う。「ああ、本当だ、あれがサンコウチョウなんだね」喜ぶ君は、ホイホイホイと嬉しそうにその声を真似る。この日から、君の世界にサンコウチョウが在ることとなる。

けれども、もともと差異はそこかしこにあるにしても、つまりは「そこ」に意識を合わせるか合わせないか、ということなのか?世界は、そんな相対的なことなのか?

私という実体と私ではない対象という実体があって、そこに交感があれば(実体と実体が出会えば交感は無条件でうまれる)意識される差異などにさしたる価値はないとも、この頃思えてくるのだ。意識されるのを待っている「それ」が無意識だとして、抑圧から自由になるために「それ」を意識し、それで膨らんでくるのが西欧が言うところの「自我」なのだとすれば、どだい「それ」の含むものなど取るに足らない、ということにならないだろうか。だって、ツキヒーホシホイホイホイ、「それ」が意識されるよりも先に音は在るのだから。

無意識は、もっともっと大きなものなんだとジッカンしている「わたし」がここにいる。

(注釈)『方丈記私記[平成]』は、2017年の6月から2020年の11月までの3年の間に書かれたものです。『方丈記私記』というタイトルは堀田善衛の著書から引かせていただいております。また、画像も堀田氏の文庫本の一部をキャプチャーしたものです。

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