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「土と土が出会うところ」 - はじめに

誰のものでもない場所をどうにか手元にたぐり寄せたくって、私は、いろいろなことを試しています。時には、建築土木をしてみたり、映画を撮ってみたり、今回のように文章を書いてみたり。ようやく指の先にちょこんと引っかかるような感触があったとしても、その手を伸ばしているのが私だということが意識されるので、それはすぐに隠れて消えてしまいます。そうなると、残念、という気持ちが湧かないわけでもないのですが、私は、私の手に、お気に入りのマグカップを持たせてコーヒーを注ぎ、できるだけ腹が座るよううからうからと過ごすことにしています。すると次第に空(くう)を切った私の手のことが、気にならなくなります。

家も本も、何かと何かが交わることを可能とするための器(もの)です。水と火はふつう出会いませんが、器をはさむと、水を満たして火にかけるような交流(こと)が可能となります。そういう交流ひとつひとつの積み重ねを生活というのかもしれませんが、器があまりにも強固になると、含むものととりこぼしてしまうもの、という分断を生みます。それなので、私は、家や本のもつ境界をできるだけないもの近づけたいという思いで、その円を閉じ切らないようにします。
家は、誰かに所有されるので、それが器から解放されたと実感するようなことはそうはないかもしれません。でも、建物を建てるプロセスにおいて、場所が、宅地とかではなくただずっとそこにあったということ、そしてそこに住むという巡り合わせた時間のことに住み手が触れることができたなら、家は、少しだけどこかへと溢れるようにしてその境界を緩めることになるでしょう。もしそれがあなたの家ならば、あなたの家が建つあなたの住む町は、名前からもゆくゆくは解放されていき、誰のものでもない場所へところころ転んでいくかもしれません。

映画「ハトを、飛ばす」(※)は、波にもまれてもみくちゃになって転がって、境界が強制的にないものとなった土地をハトの意識で眺めてみようとする、いたって個人的な試みでした。ハトが可視化する風は、われわれが定めたどんな境界もまたいでいきました。映画の中で、形而上的に定めた場所から湧くようにしてやってくる「声」がどうしても欲しくって、それをとある人に頼んでみました。どんな風の吹き回しか、その人がついこのあいだ「一緒に本を作りませんか」と私を誘ってくれました。そして、この本を出版する運びとなりました。

私は、今、その声がする方へと改めて向き直り、手を動かしながらもその手ができるだけ私から解放されていくように、うからうからと過ごすように仕事をしています。今のところですが、毎朝決まって上がる朝日を浴びているような囲いのなさの内にただあぐらをかいて座っている、そんな気楽なここちがしています。

(※)映画「ハトを、飛ばす」2016年製作、町田泰彦監督作品

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