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「土と土が出会うところ」 - あとがき

小さい頃から父が転勤を繰り返していたため、それに伴って住む場所がころころと変わってきた。それはそれで生活が定期的にリセットされる気 楽さみたいなのを感じていたかと思う。季節の風が吹けば仕事を抱えながらも旅に出かけてしまったり、人間関係において薄情であったりするというのはその名残なのかもしれないなぁ、と自己を弁護してみたりするのだけれど、それでも家というものを持つようになって、もしくは子どもができてようやく生活が土地に根付くことの面白さみたいなものを知るようになった。もともと土地というのは踏みしめたり通り過ぎるものであって、とどまることを前提として関係を持ったり、ましてや掘り返す類のものではなかった。いまとなっては生活をするということは、土地と関係を持つこと、もっと言うと土を掘ることと同義のような気がしている。家を建てるにしても木を伐採し根掘りして整地した後に基礎を打つ。その後、実が生ればいいと果樹を植えたりすることもある。その際はささやかながらも根鉢をこさえたり盛土してマウンドを造ったりする。土地に雨が降って溢れれば「こっちにおいで」と水脈を切ってその流れを地表と地中の両方で誘導する。浄化槽に溜まったうんち(正確には微生物に分解された残りカス)は年に一度汲み出して、大きな穴を掘って葉っぱなどと混ぜて埋める。

何をするにしても、土を掘らないことには始まらないのだった。

そのような意味で私が土を掘るようになった土地は、益子が最初ということになる。そして、映画の仕事がくるまで、と同じ土地で始めた建築や土木の仕事を気がつけばもう二十年近くもやり続けている。そのあいだ、建築の仕事とてふんだんにあったわけではなかったから、家族のためと言い訳をしながら校倉造りと高床式の家を建ててみた。まずは百本近くの木の伐採と整地が先だったけれど、イスラエルのキブツで働いたこともある隣家のおじさんが「木がなくなれば朝日が拝める」と毎週末、喜んで手伝ってくれた。

益子へとやってくる前は、北鎌倉に住んでいた。妻と初めて一緒に住んだ家は、小さな文化住宅だった。その家をぐるりと囲うように庭があったけれど、大家にいじるなと言われていたので何を植えることもしなかった。夏、湿気がひどくって、畳の上に荷物を置けば一日でその下にカビが生えていた。いつだったか、大雨が降ったことがあった。道を挟んで向かいの家に土砂が流れ込み、そこに住んでいたおじいさんが亡くなった。いま思えばその時だって土はすぐそばにあったのだ。

ハニヤスビコノカミはイザナミのうんちから生まれた。私が、うんちから生った粘土の神様と名前を共有していることを心の中で誇らしく思うの は、やっぱり私が産地である益子に住んでいるからだろう。しかし、うんちが即時カミサマになることができたのだとしても、現実にはそのままではには粘土とならない。うんちが埴(粘土)となるまでの道程を考えることは、つまりは生命の歴史を考えることと同じような道を歩むことになる。

それでも土や粘土のことを頭で考えるといつだって混乱する。だから身体的に土を感じようと掘ってみるのだけれど、掘るようになって何かちょっとでも土のこととか自然のことがわかったかというと、そういうことはならなかった。特に、縦に掘っていくと深さに比例して手に触れるそのことが余計にわからなくなった。土の断面は、空を見上げて星を見る時の途方のなさの裏返しのようである。何万光年前の光を星に見ているのに、 それを、いま、見ているという私の実感とのはざまには何か得体の知れないものがある。そして、それはいつだって静かに身をひそめている。一センチの土壌生成には母岩の風化とミミズのうんちの堆積などによって数百年の月日がかかる、と本を読んで学んだくせに、私の内にある実感とのあいだにはやっぱりズレがある。そして、そこには何かが隠れている。樹木を太く大きく高くすることを許した土は、樹木が太く大きく高くなる前に既にそこになければいけないはずである。むしろ、カミサマのうんちが即時べつのカミサマとなったように、岩石は、30メートルもあった大木アーケオプテリスを自立させるに相応しい土へと瞬く間になったように思われる。解剖学者の三木成夫が言うように、大便が宇宙から届いた大いなる便りであったなら、それは可能かもしれないと思う。

北鎌倉で居を構える前は、東京の練馬区にある実家に住んでいた。その頃はまだ学生で、家の近くの島岡さんというお嬢さんの家庭教師をしていたことは本編に書いた。その島岡さんが、益子焼きを世に広めた民藝の祖、濱田庄司の弟子の親戚である、ということを知ったのは、益子に通うようになった後のことである。東京の島岡さんの家は取り壊されてしまって現存しないけれど、記憶の中でその家は島岡家らしい立派な民家だ。懐かしい思いでいる私は、いま、その家でお嬢さんに勉強を教えている。回廊に囲まれた中庭にうっすらと落ちる光があって、そこに、ポポウが植っている。それをひとつもぎって割り、お嬢さんと一緒に食べている。むせるような匂いが部屋に立ち込めている。お嬢さんが私に「娘さんは何人です か?」と聞いてくる。私が「今のところは二人です」と答えている。「それなら、ふたつもぎって持って帰ってください」と言って、私にその数だけの実を手渡してくれる。その代わりに、というわけではないけれど空き地となった場所に、私は、新しく家を建ててあげる。今回は大勢の大工がいたからわっしょいわっしょい校倉造りの家は勢いであっという間に建ち始めている。大きな木槌を何度も打ち続け、みなくたくたで、でもその身体を随時いたわってくれるのはなんだかんだ木を打つ槌の音だった。間柱と呼ばれる板を屋根として葺いている時に釘を打って鳴る音は、ほとんど音楽の起源であるかのようだった。
音楽のいいところは、失われたと思われたそのそばから起源らしきものがむくりと身を起こそうとすることだけれど、家の原型もまた、住もうとするその意識のそばに常にある。そうであるのなら、べつだん生活のためにと言っていちいち土など掘らなくてもいい、そんな風にも思っていたりする。

私が勉強を教えてお嬢さんの成績が上がったのかどうなのか、その記憶はひとつもない。でも、私が益子に通うようになり陶芸家の島岡達三の名を口にして、その名をまるで初めて聞くかのようにぽかんとする彼女の顔が、記憶の片隅にある。その、ぽかんと開けられた目と口は、民家の中にぽかんと開く庭を思い起こす時、ほぼ同時に蘇る。

私の娘は、その時のお嬢さんともうじき同い歳になる。

この「あとがき」を鳥取の湯梨浜という町で書いている。泊まらせてもらっているゲストハウスの近くにミニシアターがオープンしていて、たまたまケリー・ライカートの特集上映をしていたから喜び勇んで通し券を買って観た。東京や鎌倉に住んでいた時には頻繁にミニシアターへと足を運んだけれど、益子に移ってから、なかなかそうすることができなくなった。まさか旅先で映画に出会える幸運に恵まれるとは思ってもみなかった。 初日、観たのは『オールド・ジョイ』という2006年に製作された映画 だった。少しだけ内容に触れてみる。

かつてはヒッピー的な生活を共有していたであろうマークとカートだっ たけれど、マークは子どもができて都市部に家庭を持つ選択をした。カー トはいまだにヒッピー的な生活を続けていたから、ふたりのあいだにはズレが生まれていた。カートは、マークを森の中の温泉に誘った。カートは、道中、寂しさを隠さなかった。しかしマークとて、寂しさを抱えていないわけではなかったから向けられる感情にどう反応していいのか戸惑うのだった。道に迷ったこともあって目的地にはなかなか辿り着けなかった。 綺麗な川辺にテントを張る予定だったけれど、森の中のゴミ置き場みたいな場所で二人はひと夜を過ごすこととなった。「都会には木が植っていて、 森にはゴミが捨てられている。結局、どっちだって一緒だってことさ」そうカートが言う。しかし、翌日どうにかたどり着いた温泉地は、文字通りの秘境だった。一本の大木からくり抜かれた丸木船がよっつ並んでいて、ふたりはそれぞれ好きな船に湯を張って入った。

悲しみは使い古された喜びだ。

木船のバスタブに浸かっているマークに、カートが言ったセリフである。 いや、それはカート本人の言葉ではない。森へとくる何日か前、打ちひしがれていた自分に売店の店員が投げかけてくれた言葉だった。それが、いま、実感を伴った形でカートの口をついて出てきたのだった。マークはカートを車から降ろすと家路へとつき、されどカートは気持ちが収まらず街をさまよった。このちょっとした旅を経て、ふたりがどこかちゃんとしたところへと辿り着くのか、そんなことはわからない。何かを手放したり抱えたりしながらそれぞれ進んでいく、それだけのことなのかもしれない。

この「あとがき」を集中して書くために、現場から離れた場所に宿を取った。鳥取の東郷という湖のあるこの場所は、私の建築現場のある京都府の夜久野という高原から車で3時間くらいのところにある。現場にも、湖とまでは言えない小さな池がふたつあり、それもあってか夜久野の家主が丸木船のようなお風呂が欲しい、と言っていた。敷地は、おおよそ50年から80年くらいの杉檜が植わった山である。私が夜久野に戻ったら、 その中でもひときわ大きな木を倒す手筈となっている。木こりは、濡れたうちに船を荒彫りし始める、と言っている。
現場には、年代もまちまちの職人が何人も出入りしていて、その中に、 悲しさを持て余している人がいた。私は、折を見てその人の視野に入るようにはしていたけれど、それ以上のことはしなかった。もともと宿は取っていたとはいえ、現場を飛び出したのはそういうタイミングだった。 『オールド・ジョイ』は、そんな私に差し出された映画だったのだ。ただの映画はその時に限って、私にとっては特別な映画となった。
悲しみが使い古された喜びなのであれば、悲しみもまた使い古せばいつかは喜びになる。空想の中で、大地のようにたっぷり太ったインド人の店員が大きく手を広げてその人を抱いている。だから全部大丈夫、そんな言葉を、彼女は国の言葉で呟いている。

令和3年8月30日、101才となる祖母の誕生日に

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